HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

支障と齟齬 誤りの痛み

自宅の二階から見る辺り。雲はあるものの、青空も見えている。光が差せば鮮やかだ。午前も晴れていて、一時は鮮やかな青が一面に広がった。風は冷たく、今になって強く吹いている。

それらを部屋から見たり、玄関から身体を乗り出して感じた。今日は歩かなかった。義務の気持ちが強くてやめた。タイミングが合わなかったし、胃も微妙な状態だ。風も冷たいし、心臓に負荷がかかりそうで怖い。

歩くとなれば消費をする。その分は摂取で回収したい。それが出来そうな時に歩けば良いのだろう。あるいは単純に考えて、歩きたい時に歩けば良い。

必ずしも運動に効果がある訳ではない。午前は歩かなかったけれど、昼はそれなりに空腹だった。これだからバランスは難しい。身体は動けば動くほど楽になるのだろう。でも、多少の無理をしてまですべきなのか。

今日はそのように思った。考えはすぐに変わる。

夕べはよく食べられる。それなりの状態で迎えられた。ご飯の並盛一膳と薄い肉、味噌汁もいつもよりつまむ。これだけでも少し水準は上がっていた。

食欲はそこまで強くなかったけれど、最近の最良水準に達した。それは良い証だと思う。寝る前には消化を終えていたし、数日で着実に上向いた。

 

今朝は寝坊ぎみで、胃はあまり動いていなかった。漢方を飲んでもすっきりしなかったため、食べる量を抑えようと思った。

それは変わらずそれは良い判断だった。前日が好調でも、一晩で微妙になることはある。

食べられた量はいつもより少なかったものの、ほんの数口程度だった。十分に許容範囲内で済んだ。

 

朝のルーティーンを終え、内的に費やす。そこから歩くことはなかった。本を読み、読みながら考えたりし、不支給だった年金の書類を書いた。

そこから歩こうかと思ったけれど、気も乗らなかったし、そこまで食べられなかったからやめた。腹に良い刺激にはならなそうだった。ラジオを聴いてリライトをする。

 

ほとんど意味はないけれど、内的な作業に結構な時間を割いている。それは個人的にそうだ。本も一日にそれなりに読んでいて、ほぼ毎日している。そしてここ最近は、毎日ブログを記している。

自慢のようだけれど、それは暇だから出来るのだろう。それを思った。良し悪しが分からない。何も建設的なものではないし、現実を生きないと由々しきままだ。

社会に出て人と過ごし、何か別の成長欲求に費やすか、それとも一人で内的に過ごす方が価値あるものか。

 

アーロン博士がユングの言葉を引用していた。それは、「私たちのようなタイプの人間に安易に金銭的な援助をするのは間違いだ」というもの。実際的なことを考えなくて済むなら、センシティブパーソンはたちまち"浮世離れした人"になってしまう。つまり戯れ言屋になっていく。

この言葉はぐさりと突き刺さる。

 

昼食は少し食べすぎたか。胃が重いのだから、それが真実だろう。ご飯一膳を適切に盛ったものの、それを一口食べて見下ろした時、盛った一膳を少なく感じた。

いや、少なかった。日々の無変化によって錯覚しているだけだ。ご飯一膳は多くない。それはあまりまともではない。

食べたらすぐになくなりそうだった。それなのに自分は、それを食べるのに精一杯だ。その客観性を得られ、少し驚いた。たくさん食べられた気はしても、道理で派手に上向かない訳だと思った。合点だ。

 

その意識があったため、二口か三口を追わせてしまった。それが余計だったのだろう。それでこの胃を感じている。またこんな風になってしまうのか。

いつもの最低量は食べられたと思うけれど、そこから食べすぎたのか。だとすれば、数口分が負荷になるのは頷ける。調子が良い時にでなければ、腹九部になる意味がない。そう考えれば、そこまで食欲は湧いていなかった。

過度に無理をした訳ではないものの、それに応えてしまうのが今だ。取りあえず水は多めに飲んだ。それもあって午後も歩いていない。

年金の審査請求書について、自分が書くべきところを書いた。あとは母に、不服申立て理由を書いてもらう。なぜ不服申立てに至ったのか、そして何を酌んでもらいたいのか、それを母が編み出して記す。

その内容が完成したため、自分が読んで確認した。そこまで悪くはなかったと思う。多少はどこかが痛んだものの、そうなるのは受容している。公的に組み込まれているラベルと、いかに不調に見舞われているかの数字、それを表す病歴や、生活の現状と限度。ありのままの状態がそこにあったと思う。

 

親が自分を病的に思っていると、自分はそれが呪縛となる。それに苦しんでしまう。そう感じてしまうのを避けたい。ケアとして下手に干渉されたくないと、安全のために頑張ってしまう。

それが痛みの理由だっただろう。ラベルは致し方ないものの、生活の限度は確かだ。それは詳細に表現しなければ伝わらない。

 

文面上のものであって、そこだけの認識であってほしい。あるいは病的に思っていたとしても、何かの手段を押し付けるとかをしないでほしい。

それに効果などない。自分で治すしかないのだし、その選択は分かっている。だから、自尊心を傷つけてくるような場所へ繋げないでほしい。

何かがあったのなら、自分から親に助けを求めること。その考えは共有した。それは済んだのだから、後はその約束を守ってほしい。

 

長年苦しんできただけに、支障の程度は明確にあるはず。それは十分に記されている。だから問題はなさそうに思えたものの、どこかそう思えなくなってくる。

自分の不自由の中心となるものは、発達障害摂食障害のラベルだ。それは「社会性やコミュニケーション能力が乏しく、かつ不適応な行動がみられるため、日常生活への適応にあたって援助が必要なもの」だそう。

これに基づいて判断されるのだから、支障の程度に辻褄が合わなくなりそうだ。なぜなら自閉スペクトラムの特徴としての社会性や、コミュニケーション能力に問題はないからだ。そのラベルは相応しくない。それが辻褄を合わせなくする。

 

それに加え、新しいドクターがどのように診断書を書いたかが分からない。それも影響すると思う。そこまで問題行動はないとして、支障は身体的自律神経症状にあるとされたと思う。そうならば、自閉スペクトラム症との矛盾や程度の軽さが感じられてしまう。

精神障害は認められ、家庭内での単純な日常生活はできるものの、時に応じて援助が必要』それは軽い支障に入るものらしい。

そして『少しの変化で減退する食欲により、接触は不十分となる』ともある。これに明確な理由はないものの、支障の程度と自閉スペクトラム症との辻褄が合わなかったのだろう。

『自身のペースで定期的な日常生活を送れるものはおおむね援助なく送れているが、安定就労のためには訓練、援助が必要であり、現時点での早期就労は難しい』これもさしたる支障ではないと認められたのだと思う。

 

身体的な支障を列挙するのは出来たはず。後はそれが明確な支障であるかの判断と、自閉スペクトラム症における範疇であるのかが問題だ。

主に後者が決定的になりそう。社会生活の支障について、身体的な話で証明しても駄目なのかもしれない。なぜならやはり、自閉スペクトラム症の支障がないからだ。あるのは身体と精神における支障、本質はセンシティブさによるものだ。それを読み取られたとしても、自閉スペクトラム症との辻褄が合うかどうかだ。

 

ただ、一つのプラス要素がある。それは不服と支障の証明のために、資料を添付できるということ。自閉スペクトラム症で申請が通った特別手当の診断書がある。それを添付する。つまり、自閉スペクトラム症の支障について根拠となる。

その手当は支給されたのだから、強い証書となるかもしれない。苦痛ではあっても、自閉スペクトラム症の根拠にもなる。ちょうど不足分を補えるかもしれない。

 

そう考えると、多少は有利に傾いているのかもしれない。前回の申請では、確かに不十分な部分があったと思う。今回の申請においては、あまり不備がないはず。出来ることは十分したはずだ。

それでも駄目だったのなら、それは諦めるしかない。ラベルの問題だろう。よく不支給の根拠を確かめつつ、あまり深くは考えなくても良い。

 

ただ不自由を認めてほしい。それがあれば、もう無理をしなくても良い。誰にも責められる余地はない。自分でも立脚点になるだろう。自分を守るためにそれがほしい。とにかくまともに働くことなど出来ない。

今日も記していたら夕暮れだ。年金と内的な作業で自立できたら良い。それが現実的な限度だろう。都会に引っ越すか、テクノロジーの力で生きていきたい。

就労というものがなくなったり、あらゆるラベルが成熟してほしい。中年の頃になれば、世界はハイテク社会になっていると思う。常識から何もかも変わり、全ての自動化、情報化、効率化が起こっている。平成は今でいう昭和のように見られ、学び、産業、医療・福祉、全てが洗練されたものとなる。未来を描いた作品が現実となっている。

これらに救われるのは弱者だ。早くそんな世界になってほしい。自分の孫くらいの世代に生まれたかった。

長生きすればそれなりに報われるのか、あるいは地球が駄目になっているか。それも可能性があるかもしれない。人類が自滅してしまうかだ。

 

また明日。

 

参考書籍: