欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

かりそめの数字 盲目的な支え

自宅に居る。今日は晴れのち曇り。午前はよく晴れていて、久し振りに歩いた。十五分から二十分は歩いたと思う。少し長い行程になったものの、ほとんど消耗はなかった。ためらわずに歩こうと思えたし、やはり十分な体力があるのかもしれない。朝食をたくさん食べられたのが良かった。

あまり暇が湧いていないのは合点しないけれど、安全の満足があるのだろうか。それは少しあるのかもしれない。食事量も壊滅的ではないし、一膳は食べられている。

食べられなかった時は自分でも分かり、その時は必ず痩せる。今は最低限の量なら食べられる。

そこから胃が膨らまないというところ。そこを突破できたなら、腹はぐんと膨らむだろう。

夕べは腹が空いていた。でも、昼は食べられなかった。用意していた量の一口を食べられず、咀嚼したものを吐き出した。でも、その深追いはしなかったから夕食は良かった。食欲はなかったものの、空腹で迎えられる。

そこでも一口を食べすぎそうになったものの、直近も直近の反省を活かして止めた。それが良かった。それで寝る前には空きっ腹にな。翌朝の調子を確信できた。

体重は少し減っていて、脇腹の肉も少しなくなっていた。それは僅かだったものの、今の水準からすれば大きかった。夕べは空きっ腹で寝てしまったし、今日の計測もあまり見込めないだろう。

 

朝食は確信通りよく食べられた。かなり状態が良いのを感じ、その感触通りに食べられる。腹に溜まった感じがせず、最良の量をためらわずに食べた。

そこから歩きに出たのが良かった。運動がしっかり腹に効いて、昼もよく食べられた。

 

これは考察が的中したと思う。腹の調子が良い時に歩くと、身体に良い刺激となる。それがストレスの軽減となり、良い調子をもたらす。

たしかに食欲も湧き、早期膨満感もなかった。これはとても良いことだ。それらが問題だとよく食べられない。問題がなければある程度は食べられ、胃袋を伸縮させることが出来る。

そのような状態で毎食を迎えたい。ご飯一膳とおかずだけでは、それが本当の最低限度となってしまう。一番の水準は、ご飯一膳とおかずを一品、そして味噌汁もまともに食べること。その真の水準に達しない限り、力も本格的に戻らない。

そこを上回るようになれば、長く歩くことが出来たり、気も遣れるようになる。そこを下回れば、それらが出来なくなる。

明けてまた記している。今は雨が降っていて、積もった雪がシャーベット状になった。

晴れている時間もあったけれど、歩くまでには至らなかった。便通もあったし、またも食べすぎてしまった。この状態で歩いても効果はないし、歩きたい気持ちもなかった。

 

夕べは食べすぎる。昨日の昼で調子が戻ったため、たくさん食べられるだろうと思ってしまった。

嗚呼、間断を許さずコンプレックスが湧いてしまう。誰かが読んでいるのなら、何故そうなってしまうのか呆れられるだろう。

 

まともな一膳と肉をそれなりに食べると、大方は満腹になった。いや、ほとんどそうなったか。そこで調整できなかったのが悪しきところだ。

食べる量を器に盛っていて、味噌汁は一杯分あった。でも、それが多かったのだろう。肉とご飯だけで満腹になってしまう。ご飯と肉は食べきったものの、味噌汁を数口を残してしまう。

これでもよく食べられた方だけれど、器に持った量は食べきりたいと思っていた。それは食べられそうな気がしていたからだ。

 

一汁三菜ではなく、一汁一菜。ご飯はそれなりな一膳でも、肉は小鉢の皿に収まり、味噌汁はお吸い物より少し具があるくらい。その三品なら全て腹に収めたい。その気持ちで無理をしてしまった。

その前の昼食でよく食べられたため、それがかえって悪く働いた。上述の運動が効いた時だ。食欲が湧いたし、食後の収まりも良かった。食べ終えた時に間食も食べられそうだった。

それがあり、夕食はフラットな状態で迎えられると思った。その楽観的な見方があっり、夕食もたくさん食べようとしてしまった。

 

よく考えてみても、昼はまともな一膳と、味噌汁は一杯足らず。おかずは食べられたものの、小鉢一品のみだった。かなり食べられた訳ではない。今の状況での最良量を食べられただけだ。

そうなのだから、夕食もそれくらいを収めるしかなかった。それなのに、理想の最低限度量を食べようとしてしまった。

腹が空いていたとしても、それなりに食べて次の食事に備えるのが良い。つまり楽な胃で朝を迎え、また最良の量を食べること。快く腹に収めて歩けば良い。それが出来たのなら、昼も快く食べられるだろう。

そのくらいであるのなら、気楽にたくさん食べられる。自然と最良の量を上回るはず。そのような循環を生み出せば良かった。

 

少し上向いただけで、とたんに豊かな日々がちらつく。とにかく早くまともに生きたいのだろう。たくさん食べて身体をまともにし、自立をして生きていく。その気持ちはかなり強い。

少し食べられたのなら、即刻その調子を煽ってしまう。とにかく何とかまともな日々を得ようとしてしまう。

好調は不調の始まり。どうしても腹八分に収められない。その量で止めたとしたら、体重維持に支えると思ってしまう。

それくらいで抑えても良いだろうけれど、体重という事実に頼ってしまう。何としてもその良い結果を得たい。そうしないと精神を保てない。

この病的さだ。これを植え付けられたから苦しい。それがなければただの不定愁訴持ちでいられた。

 

色々な心理による無理を経験しても、まだまだそのレパートリーはあるようだ。不調や好調の入り口と出口、食べられる量を客観的に見た時。それよりもまだまだある。無理の詳細を記すのは尽きないだろう。

どうにも安全の満足が遠い。でも、上述したように、多少はその満足があるのかもしれない。だから好調コンプレックスが湧く。不調の時は不調コンプレックスが湧き、少し上向くと即座に好調コンプレックスが湧く。

理知を顕在させられる時間が短い。快適に食事を摂れる時間が少ない。

外と内の刺激と同じだ。外的な刺激を遮ってばかりでは、内側でフラストレーションが溜まる。センシティブ故にフラストレーションも刺激となり、疲弊してしまう。快適にいられる幅が狭く、それも極端だ。外に出ては鋭敏さが災いし、内にこもってもフラストレーションに支配される。

やはり、無理をしなければそれなりに肥える。不定愁訴よりもトラウマの影響が大きい。それを治癒させること。

いや、それらの根底はノイローゼで繋がっている。とにかく基本的欲求を満足させれば良い。それが全てだ。それしか考えなくても良い。それだけで良いのだ。

 

安全の満足が遠いのは仕方ない。それは体重が増えないと得られない。意識して工夫をしても何ともならない。

運の流れに委ねる日々。それに流されている。

 

また明日。

 

参考書籍: