欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

現実と理想 内的な時間の価値

今日も自宅に居る。天気は晴れのち曇り。夕べにシャーベット状の雪が凍ったため、家の前にはでこぼこの氷が出来た。車が通ると大きな音でやかましい。

歩きに出たものの、風がとても強くて寒かった。頭は何もまとっていなかったため、かなり冷えて応えた。これは心臓に悪いと思い、どこか胸も苦しく感じたため、図書館を折り返して帰った。そこまで消耗しなかったものの、多少は身体が重くなった。

夕べはよく食べられた。昼に食べすぎたけれど、時間が経つと楽になった。それはたまにあることで、思いがけず幸運だった。調子は低調でも、こういう時がある。

これが続いてくれたら良い。多少の無理が祟らなくなれば、胃の持久力を付けられる。すると安全の満足に繋がり、身体は上向いていくだろう。

好調時はそれがあるために好調だ。恐らくはそうで、今までにそう記してきた。これからそうなってほしい。

あるいは、既にその入り口にいるのか?だから無理が祟らなかったのか。

 

ご飯は少しよく盛った一膳と、まともな肉を五枚、味噌汁は何口かつまんだ。まだまだだったけれど、しっかりした一膳を食べられた。それが分かった。それなりの炭水化物を摂取したはずだ。

その感触があっただけでも、ある程度の進展は感じられた。それが結果に繋がれば良い。そこから安定すれば、摂取量も少し増えるはず。

 

今朝の胃に負債はなく、よく食べられたと思う。食後の収まりも良く、少し身体に力が満ちた。そのように感じられた。それがあり、今回もためらわずに歩きに出た。

胃の状態が良い時に歩く。それが今日も出来た。それは功を奏し、腹が整ったと感じた。やはり、この前提と刺激は理にかなっているのか。

そこまで食欲は湧かなかったものの、昼の状態は良かった。よく食べられたし、早期膨満もなかった。また食後の収まりも良い。午後にも便通があったものの、夕食は負債なく食べられると思う。それは昼食後に分かった。

 

でも、そこで好調コンプレックスは湧かせたくない。好調は不調の始まり。確かな好調の感触があれば、それを起点として上向けようとしてしまう。理知が顕在している時こそ要注意だ。その時に限って無邪気な気持ちで食べすぎてしまう。

程よく満腹になり、それでいて次の食事を楽に迎えるのは難しい。頭に浮かんでくるのは、やはり痩せないこと。体重を減らさないように努めてしまう。

とにかく食べられる量だけを食べ、翌朝の摂取に備えること。理知の意識を確かに持っていたい。それが一週くらい続けば良いのだけれど。

午後は本を読み、インターネットを見る。いつものことだ。その後にこう記している。今は午後も夕方に差し掛かるところ。

読書と表現、そしてインターネット。あとは細かな娯楽と散歩、体調管理だ。それを回していくような日々。たまに暇になるけれど、それは多くない。大方は内的に費やしていて、それに日々を当てている。

誰かと会えるなら良いけれど、現実に当てはめると現実的ではない。フリースクールに行くのは大変だし、それは居場所もそうだろう。移動が単純に大変だし、知らない人と過ごすのも大変。そもそもそれに意味はあるのだろうか。

少数と親密な関係を築くには、大勢と関わる必要がある。それは解っているけれど、特に社会復帰をしたい訳でもない。ただ親密な人が居てくれたら良い。後は内的に費やせば良いだろう。

 

稼ぐという仕事はしていないものの、内的な仕事はしている。それはやるべきことという意味でもあるし、稼ぐためとしての意味もある。

それ以外の時間は暇潰しであり、後は歩いて体調管理をしているのみ。家事や生活に必要なことはしていない。食料は買ってきてもらっていて、本以外ではほとんど買っていない。買いにも出ていない。それ以外の生活の用事は、年金の申請をしたことか。

ただこもってばかりで、その生活が嫌になってくる。内的な作業に費やしてはいるものの、それによって大切なものを失っていないかが気になる。

家事や買い物をし、外出して仕事をする。そして用事があればそれをする。それが自分の日々から抜け落ちている。それを気持ち悪く思う。生活はこの家でやっていけるものの、それが自然ではないし、そもそも健康でない。どこか苦しいし、豊かには生きていない。まともではない。

 

意味がある時間は読書くらいか。それを形にはしているものの、それが成果をもたらしてはいない。それはあってほしくもあり、そこまでのことにならなくても良いと思う。

では、その作業に意味などあるのか。稼ぎにもなっていないし、そのための道具にする決心もない。

内的に費やすのが習慣になっていて、その時間が固定されている。それはそれなりにあり、人と会う時間をなくしている。それが実のあるものなら良いけれど、果たしてどうだろうか。ブログや読書を日々の基軸にすれば、人と会う時間は減る。

 

でも、ブログは辛いことを昇華させようとしている。辛さがなくなるに越したことはない。その辛さをなくすためには、人と会って心を満たせば良い。

欠乏の満足が得られたら、ブログによる成長のための価値はなくなる。まともに生きられるようになれたら、現実世界での自己実現的価値を見つけないといけない。つまりは新たな仕事だ。

人と会うために時間を費やせば、やるべき事を放棄しているように思える。今はそうしたくない。つまり、内的に費やすことが価値を持つと思っている。

 

内的な作業をするか、現実を生きるかだ。ブログを取る場合、不自由で病的な人生と心中することになる。まともに生きられず、幸福でもなく、身体や歯を磨り減らすばかり。並みの人生は遠く、哀れに朽ちて果てていく。それだけの人生になるかもしれない。

でも、内的に費やしたくもある。それが自己実現をもたらす価値かもしれない。それによって成長するのかもしれない。人間として限度があるのなら、社交よりも内的な適応を優先すべき面はあるだろう。

ただ、その選択によって不健康が持続すれば、それは本末転倒でもある。そしてそもそも生活が出来ていないかもしれない。並みの人生を生きるには遠くても、多少は生活力を身に付けないといけないだろう。

 

一番の理想としては、居場所には出向かずに親密な関係を築くこと。そうやって欠乏を満たせたら良い。そして一人の時間も確保し、内的に費やせば良い。

でも、人に会うとしても、その人が自分にばかり救いを与えてくれる訳ではない。それも重いのだろう。

もうペットくらいしかないのか。孤独に朽ちてしまうか、病を介して公的に助けてもらうか。技術の進化により、ある程度は自立して生きられるのか。

 

やはり理想としては、身近に親密な人が居てくれ、一人の時間も確保すること。正の感情を得つつ、内的にも積み重ねる。それらは建設的な未来へ繋げてくれると思う。そしてストレスも減るだろう。健康になるのかもしれない。

でも、それが何年も叶っていない。恐らくは、これからも叶わないのだろう。自分から動かない限り、その可能性が高くある。

技術で救われるか、インターネットで誰かとコンタクトを取るか。それもなかなか難しい。

 

また明日。

 

参考書籍: