欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

真の最低限度 単純なケア

自宅に居る。辺りは曇りのち晴れだ。その逆の順番でも良いところ。今は光が差していて、雰囲気が明るくなっている。この部屋のカーテンは、色あいからか明るく発色している。暖色の光。窓には結露が少なく、遠くがよく見える。

明日以降は荒れるらしい。歩けるのは今日が最後か。今日は歩いた。ここから年の瀬までの予報は、白い雪だるましかなかった。本格的に冬となるのだろう。

歩けない日も増えるだろうけれど、そのぶん雪かきは出来るか。でも、それはかなりの重労働だ。あまり好ましくはないだろう。

夕べはそこそこ食べられる。腹は空かなかったものの、状態は酷くなかった。昼食の影響はあり、それでたくさんは食べられなかったもの、最低限は食べられた。

もう少しは食べたかったものの、腹はよく膨らんだ。それに計測では痩せていなかったし、下腹部の厚みも変わっていなかった。

 

朝に胃の負債はなかった。食前の漢方を飲むと、胃は穏やかな感じがした。よく食べられそうな状態を感じた。

実際にたくさん食べられる。たくさんではなくとも、最良の量を食べられた。変わらず無理をすることはなく、食べられる限度を見極められた。心の声に倣ってコントロール出来た。

 

そして歩く。内的に費やし、そこからすぐに歩いた。今日もためらいはなかった。体力の不安は少し減っていた。

毎日の習慣になるとそうなるだろう。平気を積み重ねると、些細な刺激に打たれ強くなる。これは社交の資源を得る場合と同じだ。

帰宅後は少し身体が疲れたものの、消耗はしていなかった。スクリーンタイムにずっと費やせる。疲労感は食事をしたら無くなった。それもいつもの事で、体力は維持されていると思う。それも少し良い状態でだ。

 

ご飯を一膳分食べられたら、流石に少しは力が付くか。それを下回ってしまうような時は、明確に不調が分かる。それは自分でもだ。そして必ず痩せてしまう。

だから、平均的な一膳を食べられたら良い。恐らくは0・5合が一膳の量だと思う。そこに達すれば、万全でなくとも体力は得られる。一膳とおかずに加え、味噌汁もまともに食べられたら及第点だ。

とにかく馬鹿のように無理を重ねなければ良い。それがあれば、ノイローゼでもそれなりに食べられる。それが一膳分だし、もっと食べられるかもしれない。

歩けるし気も遣れるようになる。それが真の最低限度だ。最良の限度は味噌汁も食べ、間食を食べられること。無理をせずに食欲を維持すること。膨満感をなくしていくことだ。

昼はよく食べられる。そこまで空腹ではなかったものの、すんなり美味しく食べられた。それは早期膨満がなかったのが大きい。

胃がすぐに縮まれば、かなり食べられる量が減る。おまけにそれを何とかしようと、限度ぎりぎりまで頑張ってしまう。それが痛いところだ。

 

よく食べられたのは、早食いをしなかったからか。それをたまたま実践できた。テレビ番組の機能性ディスペプシア特集では、その様な対策が放送されていた。その認知はあまり意識に上がっていなかったものの、今日はたまたまそれが出来た。

特に一口目と二口目は、ご飯がどろどろになるまで噛んだはず。それも大きな消化の一つだ。それもそうだし、早期膨満にも効いたのかもしれない。いきなり食べていかず、ゆっくりと食べていくこと。

それだけでも意識すれば良い。それをするに損はない。早期膨満をなくせるようになれば、無理も減っていく。その二つの効果があれば、摂取のつまずきは減るはずだ。

 

それがいつも効く訳ではないと思うけれど、少しは効果はがありそうだ。食べられる量を見極め、ゆっくり食べていく。それによって膨満がなくなり、また無理もなくなれば、食べすぎによる食欲不振はなくなる。

つまり、食べられなくなる要素が格段に減る。そこで調子が安定すれば、運動の効果も期待できるだろう。

欠乏の満足がなくとも、ある程度は理知のケアで何とかなるかもしれない。それを期待したい。ポイントは二つだ。

 

また明日。

 

参考書籍: