欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

失敗の轍 病理の解明

自宅に居る。今日も晴れたり曇ったりしていて、道には雪が積もっている。夕べにもまた積もったと思われる。あるいは除雪車が来なかっただけだ。それを歩きながら感じていた。

午前は晴れたので歩いた。意外にも晴れる時が多い。十五分か二十分の行程。図書館を一周しようかと思ったものの、空き地のような通り道には雪が積もり、歩けなくなっていた。そこを迂回すると少し歩かなければならない。それが気掛かりで中途半端に折り返した。でも、そのぶん帰りに遠回りをした。帰って消耗はしない。

迂回するには自信がなったものの、それくらい歩ければ公共交通機関は使えるだろう。それは思った。図書館までは十分ほど。距離は六百mくらい。都会であれば、店が一つくらいはあるだろう。バス停ならあるはず。それを思うとやるせない。この出自の地が恨めしい。

夕べは腹が空かなかった。夕食の一時間半前に水を飲んでいて、それが腹の動きを止めた。これも病的な不定愁訴によるのだろう。

それだけのことで打撃となった。それは失敗ではない。どうしようもなかった。明らかに胃が受け付けてくれなかった。

ご飯一膳を食べきるのが限界で、その他は肉しか食べられなかった。それで満腹になるのはまずい。それは流石に解る。でも、それは仕方なかった。そこで無理さえしなければ良い。次の食事から立て直すしかない。

そこではあまり辛くならなかった。限界ぎりぎりまで食べてしまったけれど、それが影響しなかったのは幸いだ。多少は胃に持久力が付いたのかもしれない。

もしかすると、胃の理想的な状態にあるのだろうか。体重も減っておらず、少し増えていた。これは良い兆候だろう。このまま推移してくれたら良い。

 

朝も多少のむかつきがあったものの、最良の量を食べる。これも持久力の証に思える。食べ終わった時には最良量が少なく感じた。それくらいの調子だったし、食後の収まりも変わらず良かった。

そこから内的に費やして歩く。散歩も大した距離は歩いていないものの、かなり身体に強度があると思う。それは身体が落ちたときに感じるだろう。

 

昼もそこまで食欲がなかったものの、早期膨満がほとんどなかった。ご飯一膳はまともに盛っていて、いつもより一口は多く盛ったと思う。それを全て食べ、おかずも一品を食べて、味噌汁も一杯弱は食べたと思う。

ここ何ヵ月かで一番良かったかもしれない。少しネガティブに考えると、いつも一汁一菜で収まってしまっている。そう気付かされた部分はある。

でも、ここから変わっていけば良い。この状態と水準を維持すれば、調子は一段上向くと思う。そこで調子を落ち着かせたい。その平均の底上げがあれば、体重も増えるかもしれない。

また日をまたいで記している。今日も午前は曇ったので歩いた。今は粒の小さな雪が降っている。積もるかどうかだ。まとまった積雪にはならない気がする。

父は昨日が仕事納めで、今日は朝から祖母宅に行っている。年始の休みまでの間、その祖母宅で寝泊まりするそう。そちらで雪を掻いたり、ままならなくなっている祖母の面倒を見るよう。

 

自分はそちらへ行かないと思う。それは来年の夏までかもしれない。そう記すと何とも薄情だ。用があるのは暑い時の避暑のみ。でも、そうしたくなるくらいに祖母と過ごすのは煩わしい。

姉が帰ってきたとしても、自分は祖母宅で食事をしない。皆はそちらへ行くかもしれないけれど、自分が会食をすることはない。それは会食のネックがあるからであり、祖母とのネックがあるからでもある。

祖母は知的でないし、不定愁訴やトラウマサバイバーへの理解などない。そのための知力もないし、知性や品性もない。歳もあるし、まともな聴力もない。

無理解で配慮のないことばかり言う。耳が聞こえないのを自分で関知していないし、下品に人の噂をする。それには自分も含まれ、堪らなくて仕方なかった。この夏で嫌な面ばかり見てしまった。

こちらが理解を求めることも出来ない。そうなれば、ストレスを減らすために距離を取るしかない。そうしないと優しく接せられない。

いつか病床で泣き付かれたとしたら、どうすれば良いのだろう。哀れな姿を見せられたとして、自分はどうするのか。優しく出来ない気持ちなら、顔を背けるかもしれない。

そうはなりたくない。それは可哀相だ。だから距離を取るしかない。嫌な面を見て不快にならないようにしないといけない。辛みが募っていれば、敬う気持ちなどかなぐり捨てるかもしれない。

体調はまた安定している。無理もほとんどなく、食べすぎて辛くなることもない。よく考えるとそれが怖いというか、上手くいっているのが不思議だ。何も変化は加えていない。あるとすれば、たまたま歩ける日和があることくらい。

そのうち覆る可能性を考えれば、大言はしない方がよさそう。でも、あれだけ理知の不在を嘆いていたのに、何故だか安定している。きつくなることも少ない。

どこに節目があったのだろう。あるいはそのうち駄目になるのか。それとも運動によって胃の持久力が付いたのか。

 ―

これからの日々では、セルフフィードバックをせずに済めば良い。マニュアルを作るための失敗をし終えたい。その学びを完全に終えて、カリキュラムを学ぶ段階に進みたい。欠乏を生きるのではなく、建設的な日々を得るための資源を獲得したい。その行程をこなしていきたいり

でも、それは所属と愛の満足が必要か。それがない限りは失敗の轍を回るのか。その流れは流石に断ち切りたいところだ。

 

いま思うのは、病理を解明する行程についてだ。それは粗方終えたと思う。不定愁訴、ノイローゼ、社交不安、それらについてよく学んだし、それらを癒すための道程も知った。それら病気の本質は捉え直した。だから後は、セルフフィードバックすることが無くなるかもしれない。

これも大言だけれど、そうなれば良い。難しい本と格闘する期間を終えたい。心理学の勉強はしつつ、病理を解明するための勉強はし終えたい。

 

所属と愛が得られたのなら、後は欠乏症を癒すのみ。そして心の資源を構築していく。人と会いつつ、好きに本を読む。義務的にこのブログを記すこともない。

好きに学ぶなかで、ノイローゼの治癒にまつわる認知は得られるだろうか。それがあっても良いし、なくても良い。今までの読書は、自分の救いとなる言葉を求めていた。病を解明するためのものと、才能があると後押ししてくれるもの。

これからは過去の認知を落とし込むくらいだろう。マズローの書籍などを再読すること。それだけで良い。それ以外に頑張らなくても良い。好きに学びたいことを学べば良い。アウトプットのためのインプットを心掛けなくて良い。

 

最近は多重知能の書籍を読んでいて、ちょうど今日に読み終えた。他にインターネットの無料コンテンツに触れていて、本にはインターネットで決済している。それらになるべく触れている。それは"自分にも才能がある"と言ってほしいからだろう。

心理学についての書籍を読み終えたい。その後には好きな種類の書籍を読む。アウトプットありきは疲れる。好きに興味のあるものを読み、その認知によってアイデンティティーを生んでいきたい。有料のコンテンツでもよく学びたい。

 

病を癒すためのセルフフィードバックがなくなれば、その後に残るのはただの日記か。ただの日常とインプットの表象。それも面白そう。それが自活の道具にはならなさそうでも、病から全快するのが目的だ。そんな時が来れば面白い。

ファンに向けてライフスタイルを価値観を伝え、アイデンティティーをよく知ってもらう。そこでコアな結び付きがあれば、何か物を買ってくれたりするのかもしれない。そうなれば、日記だけでも誰かが読んでくれるかもしれない。

犬も歩けば棒に当たる。自分も当たってくれたら良い。少なくともそのためには、インターネット上の居場所を選ぶべきだろう。

 

人と適度に会い、不自由があるなかで何かを生み出す。そうやって自活をし、それなりの体力を用いて自立をする。それが理想か。

内的に費やしてばかりでは人生が腐る。かといって完全に欠乏の満足があれば、現実を生きて自己実現をしなければならない。天職との邂逅だ。それにはタフである必要がある。それは現実的に厳しいはずだ。

だとすれば、内的な適応をしつつ、ある程度の生活力を身に付けること。それさえすれば良い。それが上述の生き方だ。いつか苦の経験が楽の実を生むのかもしれない。ここまで積み上げた資産が花開くかもしれない。

そんな夢を描いて生きている。そう考えると、後はやはり居場所に出向くだけか。それさえ出来るのであれば、万事開けていく。人生の時間を回収でき、替えがたい幸せを得られるのだろう。

全ての下準備だけは万端。ここから失敗がなくなれば良い。

 

また明日。

 

参考書籍: