欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

調子の証 行動の場所

自宅に居る。今日も曇りのち雨だ。辺りは白い雲に覆われ、明るい光が眩しい。夕べには雪が十センチほど積もった。

父が祖母宅からやって来たため、母の雪かきの負担が減った。特に不定愁訴にやられている今は有難い。まともに食べられる時は、多少の運動なら出来る。その時に歩くのは申し訳ない。

夕べはまた大きなつまずきがあった。夕食までにスポーツドリンクを飲みすぎた。それは飲みすぎではなかったけれど、今の状態では余計だった。

その前の昼食で快く食べられなかったため、その不安があった。量としては極端に食べられなかったこともないけれど、不安により、エネルギーの消費を和らげようとしてしまった。

これもコンプレックスによるものだ。多少食べられなかっただけで、とたんに焦りだしてしまう。そうなれば理知が吹き飛ぶ。何としても痩せないようにと、出来うる最大の摂取をしてしまう。それは許容範囲を超えるもので、無理のしすぎとなってしまう。


夕食は完全に食べられなかった。それでもすぐに頓服の薬を飲んだところ、それがそれなりに効いた。今になって振り返ると、もっと早くに飲んでおけば良かったと思う。その日よりも前にきつい時があった。

そう考えても仕方ないか。反省しないと分からないことだ。せめて今回の判断が出来て良かった。次第に腹は楽になり、飲む乳製品を飲めるくらいになった。

それで腹は収まり、すっきりとした腹で眠った。翌朝まで生きているか心配だったものの、水をよく飲んでから床に就いた。


朝に起きると生きていた。そこまで身体は辛くなく、ほぼいつも通りだった。漢方を飲むと少しむかつきはあったものの、朝食はよく食べられた。ほぼ最良の量だった。これは頓服薬のお陰だろう。それを収めても苦しくなく、今日は便通があって助かった。

午前にいつも通り本を読んでいると、少し気分が悪くなった。その時に体力の低下を思った。やはりエネルギーは失われている。その一方で、いつもは十分な力が満ちていると思った。これもいつものことだ。

はたまた余裕がこれほど得られないのかと思った。少し休むと身体は楽になり、変わらず内的に費やせた。


そして昼になり、漢方を飲むとそれなりの状態になる。そこでそれなりの一膳とおかずを食べる。味噌汁もほんの少しつまめた。これが快い摂取か、と、そう思った。早期膨満もなく、予定よりも多く食べられる。食べても辛くなく、水を飲んでも変わらない。

これが健康な人の食事なのだろう。そして今の胃も楽だ。夕食まで時間があるものの、もう食べられそうな気がする。これも好調の証だ。これくらいでないといけないだろう。

今回の失敗で思ったのは、頓服薬をもっと使えば良いということ。少しでも不定愁訴に見舞われたのなら、ためらわずに使うべきだろう。それが調子を深く落とさないための鍵。その判断はもっとしても良い。

でも、それが出来ない事情もある。トラウマサバイバーとして、トラウマの再現を何とか回避したい。要は、親やドクターに不調を察せられたくない。それがかつてあり、不調によって自尊心が傷つけられた。

「頓服薬をほぼ使っていない」という証がほしい。それを何としても診察で言いたい。少しでもネガティブなメッセージを伝えたくない。


厄介なものばかりある。何をいままでに植え付けられたのだろう。それは周囲の接し方の問題か、それとも自分のセンシティブさ、鋭敏さによる処理の深さか?それが問題だった?それがあったから深く傷ついた?

どの家庭に生まれてもストレスはある。だからどのみち不自由を抱えることになったのか?才子多病で佳人薄命な運命なのか?月並みで普通の人生など送れないのか?

過去の償いは出来ない。誰も出来ない。すべきことは、過去の歪みから財産を得ること。自分なりの癒しをし、苦しみがなかった頃には得られなかった生き方で生きること。そうすれば、より深みのある人生を送れる。より幸福になれるのかもしれない。だからそうするしかない。


欠乏によるノイローゼと食欲不振。コンプレックスと無理のしすぎ。色々なネックが絡み合っているため、いちいちを分解するのは面倒だ。

とにかく本質にあるのは、欲求を階層的に満たせば良いということ。それがノイローゼを癒し、食欲も湧かせる。それが好不調コンプレックスの発現を止め、当たり前のセルフケアをさせる。


社交の場に出て欠乏を満たすには、暫定的な体力がほしい。それがないと神経が高ぶりやすくなる。

安全の満足によって体力を得、そこで暇を思ったら外へ出る。その過程が必要。だからとにかく、この自宅での生活で安全を得たい。そうして体力を得て、社交の場に出て生きたい。

もう何ヵ月も低水準にいる。摂取が安定しない。どうしたものか。原因が定かでない。このままな何も変わらないのかと不安だ。

とにかくこの生活がいけない。日々の満足があれば良い。それがないと不満によって無理をしてしまう。

死の不安は消えてしまうことも多い。だから、正の建設的な日々が必要なのだろう。

ぐうたらできる日々は魅力がないのか、その生活には甘んじれない。自立をしたいし、とにかく人と会わないと心が腐る。そして身体に由々しきことが表れ、生存確率が下がる。その状態を脱却しようとしてコンプレックスが発現してしまう。


勉強は必要でも、行動も必要だ。そのための居場所よ、どうか現れてくれ。


また明日。


参考書籍: