欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

ストレスと欲求 意識的な学び

自宅に居る。午後の今になって部屋が明るくなった。少し青空が見えている。鮮やかで華やかな光が差している。

未だ不定愁訴から回復しない身にとって、この明るさは少し辛い。調子が良ければ散歩へ出られたか。そのエネルギーや強度がない。それよりも、体重が深刻な減少に傾くかの際にいる。

夕べはよく食べられたものの、それが結果的に無理となっていた。いつものように満腹になるも、それが悪く働いた。多少のきつさは食事中にあっても、かなりきつくなる程とは思わなかった。

よく食べられそうな調子だった。でも、軽く収めるべきだったのだろう。それが分からなかった。腹が治まったのならば、そこで十分に食べられると思っても仕方ない。

 

運が悪いというのか、胃の負荷となることが多い。それはやはり、無理のしすぎによるものか。腹が治まるときもあれど、すぐに食べすぎや不確定な要素につまずく。

それがどうしようもない。コンプレックスはあれど、どうにか影響がなく済まないものか。調子が落ち着く時というのは、多少の無理があっても支障が少ない。それは胃の持久力によるものであれど、それを手に入れるには運の要素が大きい。

何とかよく食べられ、次の摂取に繋がらないか。体重も危険水準に差し掛かっているし、早く復調したい。

でも、その気持ちがあるからこうなっている。それがなければすぐに良くなるのだろう。いや、とにかく体重の余裕がないのだ。安定してもそうで、とにかく肉体の存続を保ちたくある。それがないと何も始まらないのだ。

 

朝食は夕べの状態を引きずっていたため、食欲が湧かなかった。胃の状態も悪かったし、そもそも物を摂りたいという気がしなかった。いつもは多少のむかつきはあっても、とにかくとりあえず食べようとしている。その意欲までなくなったのは、何だか不穏な証に見える。

昨日の朝食よりも更に食べられない。そしてもちろん、歩きにも出られない。内的には十分な時間を費やしたものの、全身の力が抜けているような気がする。そして腰の太さも変わった感じがある。それが恐ろしくて堪らない。

 

すぐに良くなるのか、それともどうにかなるのか。以前も夕べと同じ体重になった時がある。それは1ヶ月くらい前か。その時は回復し、ついこの前の歩けるような日々に繋がった。それは安心の出来る材料なのか。

いつか気を遣れるようになれば良い。それが体力の証。個人的な記憶を手繰ると、それが全く出来なくなって瀕死に陥ったことはない。あるといえばあるものの、いつかは復調し、馳せ興じられている。その欠乏症の顛末はあるはず。

 

瀕死に近付いたような時は、今の病院に罹る前の頃。その時は家庭内で孤立し、まともな物を食べられなかった。精神的なストレスも果てしなく、入浴や便通のみで消耗していた。いや、入浴は何週も出来なかった記憶だ。その時は危険なうつ状態にあった。

今は家庭内の不和はなく、精神的なストレスも少ない。あるのは肉体の存続に関わるもの。主に余裕を持ちたいということ。それがないと負の体調コンプレックスを鎮められず、分厚くないと正のコンプレックが湧いてくる。

その状態であれば、病的で盲目的な無理のしすぎはしない。そのはずだ。昔はひたすら入院を回避しようと、闇雲に無理をしすぎていた。

こう記すと、今もそのようなものがある気がする。本質は変わらないのか。変わっているのは、無理の構造を理解しているか否か。その有無が無理の程度を和らげたりしたものの、今は全く余裕がない。それでとにかく無理をしてしまう。

やはり、おおよそ本質は変わっていないのかもしれない。この病気の渦から抜け出せない。理知の力で胃の持久力は付かないし、運動による効果も少ない。

そして体重が増えず、余裕を得られない。もちろん欠乏は満たされず、ノイローゼによって食欲が湧かない。そしてコンプレックスが発現してしまう。

この悪循環にある。生存確率が低い状態だ。欲求の最下層の満足も満たされない。所属や愛、尊厳が満たされる状況というのは、生存の確率が上がる。それは原始時代の生活と照らし合わされる。

階層のステップを上がる度に、人間は存続が磐石になる。ストレスとは危険が近くにあるということ。欲求の満足が低次で停滞している場合、その人の生存確率は低くなる。すると現代ではノイローゼとなり、心身に由々しきことが起こり続ける。

 

所属と愛、尊厳の欠乏によって存続が危ぶまれ、ノイローゼという病に見舞われている。そしてそれによって安全も欠乏し、コンプレックスが発現してしまう。

それはトラウマの再現が近くなったから。今度はそのストレスも顔を出す。この二重苦により、簡単には不調の渦から抜け出せない。

この病根が解っているだけ良いものの、それがなかったらどうなっていただろう。本当に事切れていたのかもしれない。でも、生きていることで地獄に居るのかもしれない。

どうしたら良いのだろう。時の運で回復するとは思うものの、すぐに元通りになるのが落ちだ。本質から余裕を得ることなど出来ない。

 

何か日々の満足さえあれば良い。内的な作業は重要で、それは大きな投資となると思う。後は心身の栄養を補給し、存続する上でのバランスを取ること。それが大切。それさえあれば、健康や自立の糧になるはず。

近くに居場所があるか、あるいは親密な人が居てくれるか。それによって心身を満たし、ノイローゼの回復、社交や自立の糧を得る。そして内的に費やしつつ、年金の支給があれば懐に入れる。それが生活の大きな基盤となるだろう。

必要に応じて生活の行動をし、技術に頼ったりする。金銭さえ手元にあれば、後は技術によって生活が出来るかもしれない。

 

家庭科で教わる基本的な生活スキルと、社会で生きていくためのスキル。金銭は年金で賄ったり、貯金を失えば本格的に扶助してもらえば良い。

清潔に保つための意識はあるため、後はそのための品を手元に揃える。それは金銭とテクノロジーに頼る。

そして役所や病院、居場所にコンタクトするスキルを持つ。これは意思の力による話だ。外向感覚を開発しないといけない。簡潔にいえば、外の世界は怖くないという事実を知ること。そのための行動を起こさないといけない。

「人から怖い思いはさせられない」と、意識的に学びにいくこと。使い慣れない機能を用い、様々なことをやり遂げること。それはノイローゼを癒すための選択と重なる。欠乏を満たす鍵はそれでもある。

まずは図書館にでも行こうか。最初のステップはそこだろう。そこで誰かと会えたら良い。あるいはバーチャルにコンタクトをし、そこで成果を積むなどして満足を得るか。

そのどちらもすれば良い。図書館に行くことで少しは刺激に慣れ、何かの切っ掛けも得られるかもしれない。運動による効果もあるかもしれない。

バーチャルでアウトプットを積み重ねるのも良い。それが楽しくなれば充実し、まともに生きられないという不満が減るかもしれない。そうなれば、体調を頼りにして日々を切り開かなくて良い。

親密な時間と、オンライン上の成果創造。これは前述の想像と重なる。とにかく日常に刺激がないといけない。

 

とにかく全ての前提になるのは、最低限の余裕だ。そこに達しない限り、図書館にも居場所にも出られない。それをとにかく、ひとまずは得たい。

夕食は良くあれ。また明日。

 

参考書籍