欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

科学と化学物質 暫定的な土台

自宅に居る。今日は午前から光が差し、鮮やかに晴れた。はけで塗ったような青。黄金色の光が窓に浮かんだ。それだけで救われるような気持ちになる。今日はその効用によって歩いた。

午前に内的に費やした後、身体を動かしたい気持ちになっていた。身体が辛くなく、身体をほぐすための運動をしたかった。朝食は復調途中としての最良を摂り、力はそれなりに満ちていたと思う。不意に歩くことが出来た。

もちろん、強度をもっては歩けないものの、およそ五分くらい歩いた。家の回りの道を一周する程度。それでも十分な回復があると感じ、久しぶりに日光と空気を吸った。それだけでも喜ばしかった。

夕べは昼過ぎに腹が収まり、軽い空きっ腹になっていた。それは好調の証で、フラットな状態で夕食を迎えた。そして食前の漢方できつくなることもなく、ゆっくりと食事を摂り始めた。

ご飯は一膳分を食べたはず。最低限の小ぶりな一杯というところ。そしておかずも一品。中程度の肉を食べ、味噌汁は野菜の二かけらくらいを食べる。

胃が小さくなったのは仕方ない。それはこれから戻っていくもの。復調の途中であるのだから、これくらいで収めるしかない。それが出来なかったのが一昨日だ。それを認識できず、空腹だからとたくさん食べようとした。

その直近の反省があり、より良く食べることはなかった。もう少し食べられそうな気がしたものの、ここで食べるのは良くないと止めた。

それが良かった。食後の薬を飲むとちょうど良い腹になる。一方で入浴前にはきつさを感じ、より食べなくて良かったと思った。入浴後のスポーツドリンクは少し溜まったため、結果的にそれも合わせて良かった。

 

胃の状態は万全でないということだ。満腹になってもまだ耐えられないし、それくらい落ち込んだということ。復調までには一週が必要だと認識していて、それが的確だったことを知る。徐々に胃を馴染ませないといけない。

それでも、朝に負債は残らなかった。漢方を飲むとむかつきは少なく、いつものように食べられた。気持ちから受け付けないということはなく、すぐに悪心がすることもなかった。そして理知も働いて、無理をすることがなかった。

 

ここから右肩で推移すれば良い。それはこれから数食に渡る理知の顕在がないといけない。無理をせずにほどよく食べ、徐々に状態を底上げする。そうすれば摂取は安定し、体重も上がっていくだろう。

一番の理想としては、その理知の力が途切れなければ良い。それがあればずっとよく食べられるはず。普通の人はそうやって摂取をしている。無理をして満腹にはならない。好調と時も不調の時もだ。

食事は気楽に摂れば良い。体重を厳重にケアしようとしても、結局はそれが逆効果になってしまう。それを何とかしたい。不定愁訴によって胃の運動機能は下がっているのだから、無理の追い打ちはなくさないといけない。それがあれば壊滅的な状態となってしまう。

それさえなくしたい。そうなれば、胃のむかつきは変わらずあるだけで、最低限の摂取は出来るはず。それがあれば良い。

不自由を抱える人生であっても良い。だからとにかく、最低限の体力を確保したい。肉体の存続を保つ体重と、外的に活動するための原資。それがないと、とにかく何も始まらない。

次の診察まで一週を切った。そこまでに調子が戻る余地はある。一週もあれば調子は元通りになる。このまま理知の力を強めれば、体重も回復していくはず。

 

ふと思ったのは、薬による解決はないのかということ。過敏性腸症候群の特集を見て思った。それは上腹部の不定愁訴と似たような病理があるはず。機能性ディスペプシアだ。

腸の方もストレスが原因であるそう。それは抽象的に考えられたものではなく、本質的な病理が解明されていた。それは精神的なストレスの影響と似ていて、スマホ脳という本を思い出した。それには原始的なメカニズムによる支障の解明がされていた。

身体はストレスに見舞われた時、外的から闘争するか逃走しようとする。そのためのホルモンを分泌する。腸の病理の場合、それによって血糖値が上がり、心拍数も上がるそう。ストレス物質によって身体を奮い立たせている。交感神経の優位があるのだろう。

でも、それによって腸が過敏に反応し、過剰な動きをしてしまうそう。消化物を便にしていられないとして、かえって過剰に動いてしまうのではないか。

 

似たような病根が上腹部にもみられると思う。欠乏によるストレスがあると、エネルギーを外側(逃走か闘争)で使おうとする。すると消化をしている場合ではなくなり、リラックスして消化をすることが出来なくなる。それが食欲不振や早期膨満として現れ、胃もたれや悪心に繋がってしまう。

本質的には生活習慣の改善が必要だろう。でも、それはなかなか難しい。だとすれば、その機能性ディスペプシアに用いる薬を使えないかと思っている。その薬が一つあり、それは一度も飲んでいない。

それを夕べに考えた。それによって楽になれたら、どれほど救われる思いがするだろうと思った。

 

ただ、Webで調べたところ、それは内視鏡検査で潰瘍などがみられない必要がある。そうでないと用いられないと記されていた。

それは一度もしていない。潰瘍はないと前病院で告げられたものの、それはエコー検査によっての所見だった。この違いが大きいのだと思う。そう考えると、今まで処方されなかったのに合点もいく。

本当にそうなのだろうか。それは何故そうなるか。検査が出来ない理由は、体力のなさによるのだろう。でも、その病に見舞われた場合、体重の深刻な減少があるのではないか。それがよく解らない。

製薬会社に対する疑念でもあり、症状はあっても内視鏡を突っ込める場合も解せない。何故そういう人はいるのだ。こちらはその選択肢の幅により、生活や寿命までもが変わる状態にいる。

 

とにかく次の診察では、その薬について尋ねてみたい。調子が悪いのかと察せられそうでも、念のための確認をしておきたい。

訊くだけなら損はないだろう。そこで処方できないと告げられたら、それはもうノイローゼから脱するしかない。その踏ん切りはつく。

もし処方できるのなら、遅きに失してはいるものの、今からでも試してみたい。早く飲んでおけばと後悔するかもしれないけれど、効果があるのなら儲けものだ。今からでも遅くはないだろう。

 

それに加え、無理をしすぎることも深く説明したい。体調コンプレックスがあり、無理をしてしまうということ。そこから脱却するためには、欠乏を満たして生存確率を上げること。その階層的な順序の過程を説明する。その情報共有は大切だろう。

でも、そう考えるとなおさら前提が必要だ。欲求を駆け上がるためには、安全の満足という土台がないといけない。体調コンプレックスは誤った意思をもたらすけれど、肉体の存続には体重が必要だ。それによる満足は欠かせない。

闇雲に無理をしてはいけないけれど、それなりには食事を摂れないといけない。そのために薬物の力を借りたい。それによって暫定的な土台が整えば、そこからノイローゼを癒していけるかもしれない。

そうなれば後は断薬をすれば良い。これは薬の基本的な用い方だろう。ある程度は薬の力を借りても良い。

なかなか選択肢がない。家庭円満でも、運動でも、食事の摂り方でも変わっていかない。無理も絶えずしてしまうし、食欲が安定して湧かない。

それは安全の満足がないからだ。でも、工夫次第で変わるものではない。

だから薬の力を借りたい。現代の病に見舞われているのなら、現代の技術によって救われても良い。ストレスをなくせないのなら、ストレス反応を殺す物質を投与すれば良い。

とにかく楽になりたい。死の淵から脱却したい。それだけだ。とにかくそれだけで良い。そして安定的に不定愁訴を取っ払いたい。そのためには薬以外の選択肢も考慮する。だからせめてもの安全を与えてくれ。

 

また明日。

 

参考書籍: