欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

遠い理想 自立と環境

今日も自宅に居る。夕べにまとまった雪が積もった。父や母は除雪に稼働している。それは市井の人たちもそうだろう。除雪機が轟くなかを歩くのは忍びない。家には寄せられた雪が残っている。

歩ける体力はあった気がするし、家の雪くらいかいても良かったか。でも、朝にほんの少し食べすぎたし、身体に障りそうで不安だった。年金受給者は在宅での活動に限られるけれど、どうにも申し訳がない。

変わらず内的に費やしただけ。そうして一日が終わるのだろう。家事もせず、買い物もしない。人と会わないし、居場所もない。特段の用事もないし、要は娯楽に全てを費している。数時間をインプットとアウトプットに費やし、後はインターネットを見たりしている。

家庭科の教科書にあるような自立をしたい。自立の要素はほとんどない。あるのは娯楽くらい。それも贅沢な話だけれど、健康的で文化的な当たり前の生活がない。そのような生活さえ得られたら良い。それは全人類の願いか。

現代の労働と金銭はどうなっているのか。食べるための義務が色濃いなか、娯楽や創造をして生きる人がいる。

全人口の半分しか労働をしていないという。そして食料の生産のために全ての労働があるのではないはず。では、皆が娯楽をして生きていけるのか?それは否に思える。

誰しもベーシックに存続を保てはしない。健康的で文化的な生活を送るには、金銭でそれとやり取りしないといけない。そのために何かの価値を生まないといけない。

人を感謝させることや、人を喜ばせること。それを社会的な需要に費やす人もいれば、娯楽を通じて人を喜ばせる人もいる。その違いがあるはず。

社会に必要なサービスや物を生むためには、金銭を通じて人が活動しないといけない。それに創造性や娯楽性があるのなら、誰しもが楽しんで生きていけるだろう。でも、エッセンシャルな仕事にそれはあるのか。その人たちに犠牲になってもらって良いのか。

娯楽に興じたり、それを生み出そうと出来るのは余裕がある人のみ。それが大きな差だと思う。それがない人間は、義務として働かないといけない。何かで暇がある人は、好きに自己を表出できる。自己のアイデンティティーを発見できる。

 

とにかく自立をしたい。最低限の家事をし、外に出て用事を済ませる。居場所で人と過ごして、趣味としてのインプットやアウトプットをする。そのなかで生まれたアイデンティティーを、好きなように発現していけば良い。

これが現代の理想的な生き方か。それは義務的な労働の上にあるものの、クリエーションに大勢が動いたとすれば、エッセンシャルワークの待遇が良くなるかもしれない。

好きに娯楽に費やし、気が向いたら何かを表出すれば良い。それは簡単なことか。それに面白いのかもしれない。生活が確かであれば、何の束縛も必要ない。ただ娯楽に費やし、アイデンティティーを築けば良い。

夕べはよく食べられた。久し振りの感覚があり、快く胃が膨らんだ。昼によく食べられなかったものの、夕食のそれがあって体重が増えていた。やはり空腹で食べられたら良い。それだけの話だった。

昨日は幸運だったと思う。昼に多少の食べすぎがあったものの、夕食までには回復していた。それは運かそれ以外か。後者を考えると、間食としてのスポーツドリンクを飲みすぎなかったことがあると思う。

二口ほどそれを飲んだはず。間食としての意味もあるため、なるべくたくさん飲もうとしがちだった。それを抑えて最低限に飲んだため、それで腹が整った気がする。

 

夕食は用意した量よりも一口は食べられる。かなり食べられた訳ではないものの、最近の胃袋の最良の量だった。薬を飲んでも全く苦しくない。腹はよく膨らんだ。

そして計測で良い結果がみられた。やはり何事も腹八分。それが全ての良い循環をもたらす。ノイローゼであってもそれなりに食べられるはず。とにかく無理をしなければだ。

この田舎町では、まず欠乏を満たす環境がない。公的な居場所は遠くにある。若者向けの場所は少ない。それでいて高齢者向けの施設はたくさんあり、それが恨めしい。

仮にある程度の体力を得られても、最寄りの店まで一kmはある。その距離は健康な人でも歩かない。自家用車を運転する人が大概だ。つまりこの田舎町では、車がないと自立できない。若者の居場所もないのだから、インターネットの世界に望みを託すのみだ。

 

通販で書籍を取り寄せ、それによるインプットとアウトプットをするしかない。それだけでは豊かでなく、健康が損なわれているため意義が薄い。

どうやったら充実するのだろう。同年代とは見る世界も違うし、いざ会ってもどうしようもないだろう。公的な居場所はないし、車がないから出掛けられない。インターネットを通じてみても、それによって健康にはならない。

まず家事をし、買い物をしたり、用があれば出掛けたりする。そのなかでたまに気の合う人と会う。

その生活の仕事をこなした後は、基本的に内的に費やす。前述の娯楽をし、好きにアイデンティティーを発現する。そして時たま変調の時間も取る。でも、それが今の生活にはない。

 

理想はやはり、地方の中枢都市に住みたい。生活圏にバスが巡っていて、それに乗る力とスキルさえあれば生きていける街。そこには居場所もあるだろうし、役所や病院へ自力で通える。買い物も近くで出来る。

でも、そこに引っ越すことなんて大掛かりだ。近くにある祖母宅は一軒家であり、そこに引っ越すことになる予定だ。そこも老朽化しているものの、遠くに引っ越すことなど難しいだろう。

 

このままの生活が続けば、このままの生活が続く。それを自らで変えないといけない。

一昨年の年末のエントリーを読み返した。次の年の展望を記していて、何かが変わることを期待していた。そんな自分がいて、それを哀れに思う自分もいた。

去年は内的な成長はあった。でも、生活は変わらなかった。年をまたいでも同じ展望を持っていて、それはより強くなったと思う。

このまま歳を取るだけだろうか。そうなるなら堪らない。後はノイローゼさえ癒せたら良いのに、それが出来ない。

あるいはそれなりに体力さえあれば、狭い生活圏なら生きていける。でも、それは遠い理想の話。この町に未来はない。

 

また明日。

 

参考書籍: