HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

トラウマの再発率 コンプレックスと刺激

今日も自宅に居る。つい先程に母の運転で外出し、コンビニでプリペイドカードを買った。往復で十五分。距離にして片道で一km以上だ。歩いていく距離ではない。田舎の店は国道の端にしかない。それが堪らない。

歩き以外で外に出たのは数日ぶり。すっかり道幅が狭くなり、道端の雪は高く積もっていた。それは壁となっていて、道行く車を確認しずらかった。今年はかなり積もっている方か。雪をかいたり歩いていないため、あまり実感はない。

夕べはよく食べられた。その前の昼に失速したけれど、そこで無理はしなかったのだろう。胃に負債はなく、夕食はフラットに迎えられた。よく食べられ、まともな一膳を食べたはず。肉は小鉢くらいの量を一品、味噌汁はそれなりに食べられた。

それでまた少し脂肪が増えていた。入浴前の観察では、腹の削げ具合が和らいでいた。多少の肉感があり、腹に膨らみを確認した。実際に計測すると、数百グラム増えていた。

 

最近は死の影が薄くなった気がする。やはり生死の認識は、内向直観が誤って導いたものだったか。そんな気がしてくる。死の恐怖は和らいでいる。それで不調コンプレックスも潜在したはず。

真にそうなっているのなら、それはそれで別の課題が生まれる。それが難儀だ。身体の恒常性や安全が満たされたら、病気の発生や悪化はなくなる。慢性の病気を癒すには、所属と愛が必要だ。それが欠乏してしまえば、またもコンプレックスが湧いてしまう。

 

恐らくは、今の体調でもエネルギーは満ちているはず。もう所属と愛を求めたくあるだろう。その上の尊厳も求めたくあり、またアイデンティティーの確立や、自己の統合を実現したくある。それらを得るための基礎はあると思う。

全ての欠乏を満たさない限り、生存の確率が下がってしまう。それが病気に繋がるのだろう。身体は原始的に反応し、戦闘と逃走のモードに入る。それは外敵に遭遇した時の反応と同じだ。現代の生活でそれが続けば、それはノイローゼとなる。

その外敵を倒す、あるいは何かで生き残るとすれば、所属があって愛もあるのが良い。それは原始生活に照らして考えても、現代の欠乏症者にとってもだ。それが生存確率を上げ、ストレスという外敵に対処できる。

満足が階層的に増加すれば、心身の健康の程度も上がる可能性がある。原始時代の生活スケールを考えると、ノイローゼに陥る原因や、治療の手段が解る。

欠乏状態を掻い潜ろうとし、新たな人格形成のために無意識が発現する。それがノイローゼによる不調であり、コンプレックスや劣等機能に囚われた状態だろう。

日をまたいで記している。今日は変わりやすい天気だ。晴れたり大粒の雪が降ったりしている。今は日が差している。

午前の晴れ間に歩く。あまり歩きたくはなかったけれど、歩かない日が多いのが気になった。体力は落ちていないはずでも、歩きたくなるような日が少ない。ここ直近ではそうだし、歩いた方が良いかと気になった。

歩くと日差しが気持ち良かったものの、行程の折り返しの前に違和感を感じた。それはガス欠の警告だったろう。どこかに身体のきつさがあった。

前回に歩いた距離を歩けず、それを短縮して折り返した。身体がきつかったのは否めない。帰宅してもそんな感じはした。

 

体力が落ちてしまったのか。思い浮かぶのは、夕べの食事をよく摂れなかったこと。それが一因だったとは思う。あるいは計測で痩せていたからか。

その前日の昼食がよく食べられ過ぎ、かえって調子が悪くなった。一膳をまともに盛り、おかずも一品分を食べた。そして味噌汁も一杯ぶん近く食べる。ここ最近で一番よく食べられた。夏場の調子がこれくらいだった。一汁一菜の最低限度。

でも、それは今の胃に収まらなかった。そこまでの強度はない。それを食べられそうな調子があったとしても、それは率直に受け止めない方が良い。

 

いや、好調コンプレックスによる無理があったか。何口かは無理をしたかもしれない。朝食を無理せずに食べたため、とても良い調子で昼食を迎えられた。それが仇となり、たくさん食べようと意気込んで許容範囲を超えてしまった。

朝はほとんど理知的に対処できるのに、昼と夜はそういかない。ここで認識を構築しているのに、気を抜けばそれは霧散する。セルフケアで「ゆっくり食べよう」とか、「食べられる量を食べれば良い」と復唱しているのに、いざ食事を目の前にすると駄目になる。

コンプレックスとは、"多くの心的内容が同一の感情によって一つのまとまりを形作り、これに関係する刺激が与えられると、その心的内容の一群が意識を超えて活動する現象"を元に、その無意識内に存在する、何らかの感情による心的内容の集まりを指している。

その一つの感情はまとまりがありつつも、中心となるような核をもっている。その最も典型的なものが心的外傷。自我とって受け入れがたい経験は、抑圧されて無意識に閉じ込められる。でも、それに前述の刺激が与えられた時、統合性を持つ自我の働きを乱す。これをマズローの言葉で言えば、「内部信号の消滅」となると思う。

 

過去のトラウマの照らし合わせれば、やはり体調にまつわるものが心的内容だ。「体調が悪いからこうなったのだ」という経験は、自我にとって許容できなかったのだろう。

体調を良くするということは、どうにも達成しがたい。だから体調にまつわる感情を押し殺す。でも、トラウマの再発が近いと感じた時、その心的内容が意識を超えて活動する。それが好不調コンプレックスで、何とか身体を上向かせようとしてしまう。そうやって無理をし、心身を保とうしてしまう。

存続を保つにはそれしかないと、過去の自分は体感した。でも、それを意識しても変わりはしない。だから抑圧をし、潜在させて自我の影響を保とうとしている。「自由に寝食を回していれば、次第に上向くかもしれない」と。

 

でも、今の生活を続けていれば、やがてトラウマに脅かされるかもしれない。ただ、それは一理あるようでない。それは主機能と劣等機能が暴走し、トラウマの心象を膨大させた推論。ここでも自我と無意識の調合がとれていない。それは欲求の欠乏に繋がり、生存の確率を下げる。そうなってしまえば真にトラウマの再現率も高まる。

まずはトラウマを遠ざけること。そのための認識は得たはず。まず真に極度に辛くならなければ、死の淵に立たされることはない。不調の際に感じた死の影は、内向直観が誤って導いた推論に過ぎない。それは誤った現実感であり、病的な神経衰弱をもたらす。盲目的な無理のしすぎの本質だ。

そして次にあるのは、自尊心にまつわる体調コンプレックス。不調によるトラウマは、死が近付いたこと以外にもある。拉致されるように入院させられ、誤った診察もされたのもそうだ。その屈辱的な元体験がある。体調が悪ければ、自尊心を保つことが出来ない。そう学んだため、とにかく磐石な体力を求め、在りたい日々が遠いと堪らなくなる。

心身の両方ともに体調コンプレックスがある。不調を脱したと思えば別が現れ、それによって不調に落ち込んだりする。

 

ただ、やるべきことは解っている。欲求を階層的に満たしていけば、トラウマの発現率は下がっていく。「死にたくない」「まともに生きていきたい」と願うのならば、死を遠ざけ、まともな日々を得てしまえば良い。生理と安全が満たされたら、死ぬことはなくなる。そして不調コンプレックスは和らぐ。そこで更に所属と愛が満たされたら、まともな日々や健康を得られる。好調コンプレックスも影を潜める。

基礎的な体力を携え、豊かで在りたい日々を叶えれば良い。身体の恒常性と安全を得て、人と過ごすまともな人生を得る。これがトラウマから一番遠い生活だ。そうなれば、コンプレックスを触発するような刺激はなくなる。

改めて認識を練磨した。トラウマとノイローゼ、コンプレックスと欠乏、そして心の習慣。これらの概念は奥底で繋がる。何度もそれらを学習し直したい。何度でも発見があるだろう。

 

また明日。

 

参考書籍: