欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

生存の警告 横着な選択

今日は午前中に歩く。午前は晴れたり曇ったりしていた。午後の今は少し暗くなり、気分もトーンが落ちている。また歩きたい感じもするものの、そこまでする意味はあるのか。

直近の食事で無理はなく、食欲も落ちていない。夕べの計測で減ってはいなかったし、今日も歩くことが出来た。その後に消耗もしていないし、頭も働いている。悪くないと思う。

体重に関しては、それなりに食べられているものの、やはり快い満腹は少ない。だから増えないのだろう。爽快に腹が空き、想定よりも多く食べられることは少ない。一膳を食べきるのがきつくある。その差があるのだろう。

そう考えた場合、今の水準にあるのは自然か。大台割りから一キログラムは下回っている。ある程度は食べられているつもりでも、それは認知が歪んでいるからか。好調時はもっと食べていたのだろう。

 

好調の時は図書館へ通ったり、かなり遠くまで散歩に出ていた。それが身体に良いものだったのか。図書館学級ではやることや会う人がいて、その時に最高水準があった。

でも、その時期やフリースクールに通うことがなくなっても、体重が上向いたことはある。それが去年の春頃だ。そのなった理由としては、運動をしていたことしか思い付かない。

食欲と無理のしすぎの問題がある。無理は好調コンプレックスによるもので、これは内向直観に関わるものかもしれない。その解明はまだ済んでいない。理知的な認識によって変われば良い。

食欲の問題は、ノイローゼとストレスによるもの。欲求の欠乏があり、それによってノイローゼに見舞われている。そして同じようにストレスも生まれ、自律神経が乱れてしまう。

 

自律神経の乱れを何とかしたい。それは工夫によって何とか出来ないか。理屈を考えてみれば、解決策がありそうな気がする。

消化や吸収、睡眠などは、リラックスした状態でないと行えない。それは原始的に外敵のいない状況、現代ではストレスがない場合でないとはかどらない。

そのストレスやノイローゼがある場合、身体はそれに立ち向かおうと反応してしまう。すると消化などを疎かにし、消化不良や不眠に陥ってしまう。

現代人は外敵になど遭遇しない。それがネックだ。あるいは身体が進化しないことか。原始時代のサバイバル術を携えなくとも、現代では生き延びることが出来る。それを身体は知っていない。だから欲求の欠乏をストレスとして反応し、原始生活における生存確率を上げようとしてしまう。

 

消化不良とはなぜ起こるのだろう。それはストレスへの反応だろうけれど、その裏側にあるのは何か。原始的で生物的なものを参照すべきか、精神分析的にノイローゼの観点を持つべきか。

ストレスに対処しようすれば、消化は後回しになる。それは嘔吐にもなるし、腹を下すことにもなるか。その狭間に消化不良があると思う。吐くでも下すでもない。それは何なのか。消化はなされるものの、そのスピードが遅い。これもストレスが近くにあるためか。

あるいはユング心理学入門に記されていたように、ノイローゼの原理による原因があるのか。心身のエネルギーが消化不良になっているため、胃にも消化不良が起こる。そんなことがあるかも知れない。

 

エネルギーを発散できないことがストレスなのか。では、そのエネルギーとは何なのか。発展させるべき可能性があるのか、欲求を満たす力があるのか。

あるのはやはり好調コンプレックス。それなりに体力は満ちるため、そこで生まれたエネルギーを建設的に用いたくある。それが叶わなかった時、何とか状況を打破しようとして、そのコンプレックスが発現する。

体力が満ちた時というのは、生理と安全の満足があるだろう。だから所属と愛を求めたくなる。その欲求の満足があれば、病気は癒される。マズローはそう記した。

つまりそれが欠乏している時、人は病気になる。欲求は階層的に満たされると、生存確率が上がっていく。逆に満足が阻害されると、身体にはストレスが生まれる。現代人のストレスというのは、外的な敵に対応する面もありつつ、生存確率の下がった暮らしに対する警告でもあるだろう。初歩の欲求を満たせなくなればなるほど、それがより顕著となる。

所属と愛が満たされた場合、生存確率はぐんと上がる。そこで心身のバランスを満たし、可能性を発揮するための土台を得る。そしてその可能性を開発していく。そうすべきなのだろう。

それは所属や愛を得る過程でなされていく。普段は用いられない機能に目をやり、それを意識的に用いていく。人間の才能は、他の人間との関わりで発揮されるはず。

食欲不振は消化不良は、やはりストレスがなくなれば良くなる。そのストレスというのは、所属と愛の阻害によるもの。それがあれば生存確率が上がり、心身が満ちて自己の統合に向かえる。使い慣れない機能を意識的に用いること。所属や愛があるなかでそれをし、やがて尊厳や可能性の発展にまで繋げること。

やはり、今の体力の水準であったとしても、外に出て交流を持つべきか。トラウマが固定した記憶を上塗りすること。社交が上手くいったという経験を積む。そのために認知や認識を変え、多少の化学的な力も借りる。そうやって理知的に対応していけば、活動する資源も得られるだろう。

 

ただ、そうなるとなぜ春は上向いたのか。それが分からない。やはり運動の効用か?原始人はたくさん歩いたり、狩りをするために心拍数を上げていた。その名残があり、現代人も運動をするとストレスが減る。程よくそうした原始人が生き残ったからだろう。

運動をしつつ、間断を挟まず所属と愛を得る。それが理想か。いや、所属と愛をとにかく得られてしまえば、運動をするまでもないか。

所属や愛を得ずにいて、「運動によってそれなりの体力さえ得られたら良い」という考えにもなる。そうなれば、この田舎町で生きたとしても、死にかけることはない。テクノロジーの力があれば、自立していく道筋も生まれる。その欲が出る。

でも、好調コンプレックスは確かに湧いてしまう。運動による効果はそれを上回るのか。春にはそれがあったのか、それともただ気楽にいただけなのか。

食欲不振と消化不良、そして無理のしすぎ。ノイローゼとコンプレックス。ストレスすなわち生存の確率が低くあり、それが少し和らいだとしても、すぐさまバランスを取ろうと解離が起こる。

とにかく精神のバランスが取れていない。それが確かだ。自分にもかつて所属や友達があった。その頃はただの少食で、十分に平気でいられた。そのことからも辻褄は合う。

 

また明日。

 

参考書籍: