欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

間接的な傷 人格の尊厳

今日も午前は青空が見え、午後の今は少し暗くなった。空も地上と同じく白くなり、雪がちらちらと降っている。暖かい部屋に居て、そこまで午後のだるさはない。

読書を済ませ、手持ち無沙汰になっている。ここでまた何かを読むべきか、それともブログを記すべきか。取りあえずこうやって記している。

 

ブログを記すこと自体に成果はない。それは一般論でもあると思う。初めは何の対価も得られないもの。何かの意欲が枯れず、インプットが既にある人は価値を生める。

それは結果的にそうなるだけ。好きなことや情熱があり、それを表すこと自体が報酬となることで、続けることが出来る。それが本質的に大切。そうして表現が精錬されたり、インプットが高まって価値が付いてくる。

アウトプットをすることに報酬はない。だから好きにやり始めるしかない。ましてやこの場所だとそうなるだろう。ここはただ思いを形にする所。利用者は場所を与えられることしか恩恵がない。広大な土地はありつつ、誰も感謝を交換することはない。そこでお店は開けない。

とにかくただ記すのみだ。そのための意欲があるのなら、ただそれを爆発させれば良い。何の束縛もない。有益なことを記す意味もないし、ただ意見やアイデンティティー、思いや感情を記せば良い。そこに義務はなく、何も制約などない。

 

擬似的な習慣としての束縛と、何の制約もないアウトプット。行き着くのは内なるネックだ。トラウマ由来のものか、ただの気性なのか。努力家なのか、それとも完璧主義なのか。あるいは自己実現のための執念か。それがよく分からない。それらが絡んでいるのかもしれない。

体調は悪くない。午前中に散歩へ出られ、最近の最長の距離を歩く。帰宅しても消耗はない。午前の読書を軽く終えたため、それで体力が余っていたのかもしれない。頭も疲れていなかったし、気分も悪くなかった。朝食を最良で食べられたのも良かった。

自宅から五百メートルくらい先を折り返す。そこまでいくと少し車通りが多くなる。その辺りに店があれば良かった。食事や日用品は自分で用意したい。最寄りの店はオンラインで注文など出来ない。

田舎の交通弱者を救うための番組が放送されていたけれど、放送終了後にそれに気付いた。パーソナルモビリティの話だった。

公共バスも走っているのだけれど、それでは不便なのではないか。時刻表通りに行き帰りするとなると、明らかに無駄が多い気がする。ましてやぐるぐると町内を巡回する。

とは言うものの、自家用車でしか移動したことがないため、バスやタクシーに乗ったことはない。理想は無人のタクシーが流通すれば良い。

やはり店が遠い町は嫌だ。罹り付けの病院に至っては、車で一時間近くかかる。何故このような町に住むのか。冬場は雪かきに体力、時間、金銭を奪われる町。弱者が放り落とされたら堪らない。

 

夕べの夕食はよく食べられる。一膳はまともに盛り、肉はいつもの量、味噌汁は一杯弱ほど食べる。一膳を食べてもまだ食べられた。一汁一菜に少し近づいた気がする。大鍋の味噌汁もよく減り、悪くなく食べていると思う。

夕べと今朝はちょうど良い塩梅で摂れた。ただ、先程の昼食は食べすぎたか。許容範囲だった気もするけれど、夕食が少し不安。腹が空いていたために、するすると食べられてしまう。その勢いでいつもよりよく食べてしまう。

最後の何口かを食べる時、「これ以上たべたら満腹になる」というメッセージが浮かんだ気がした。それは食べすぎる時に生まれるのだろう。その一口ですぐ止めたものの、この胃には支えるものだろう。それが不定愁訴の原因。ストレスがある胃にとって、腹が減っても満腹にはならない方が良い。

 

今の状態を感じれば、夕食にそこまで影響はないか。ただ、快い満腹になるのは難しそう。また一膳を食べるのが精一杯なら、そこで体重が増えることはない。

理想は常に腹八分で収めることだ。それがある程度つづけば、その量でも腹はぐんと膨らむ。胃の容量が増えるからだ。目先の満腹よりも、遠くにある満腹を目指さないといけない。

 

ただ、無理をしてしまうネックはある。気が付いたら無意識に支配され、それはすぐに潜在していく。それが厄介だ。

やはり、無理をしすぎるというのは、人格が解離する程ではない。強烈に攻撃的になるとか、鬱になる、回避する、恥を感じることはない。

愛着関係によるトラウマとは少し違い、誤った接し方によるケアの誤認がある。これはトラウマとは少し違うのか。

鮮烈な虐待による感情ではなく、屈辱や不服にまつわるもの。親やドクターは、直接的に人格を攻撃してはいない。きっとそうなのだろう。誤った接し方をしていただけだった。尊厳を滅茶苦茶にされたとは言えないか。だからトラウマとは少し違うのか。

 

いま読んでいる本のパーツの理論は、社交におけるコンプレックスを理解するのには役立つ。ただ、無理のしすぎにまつわる認知は得られなさそう。それはアーロン博士の哲学や、ユングの概念とMBTIだけで解明できるのか。

トラウマの本質が解れば良いものの、もっと認識を刷新したくはある。まだ通読はしていないし、読み進めよう。他にも関連の本はあるし、まだ何か発見があるかもしれない。

まだまだ学ぶことはある。ただ、もっと興味のあることを気楽に学びたい。病を解明するための学びは大変だ。簡単には吸収できない。頭も時間も使ってしまう。

急がば回れなのか、いつかのための素養になるのか。そのどちらでもあっても良い。そうならば良い。

 

また明日。

 

参考書籍: