欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

エネルギーの実現 部分的解離とノイローゼ

今日は曇っている。午前には青空が見えたものの、大空の半面にしかなかった。ただ、少し暖かい日が差したため、そこまで寒くなかった。ジャンパーのフードを被ると恥ずかしくなる日和。家々のガラスに写るその自分は、不審者のような感じがした。ジャンパーの丈は短くなったし、まともな物を買いたい。

 

今日は平穏か。誰も居ない家の居間に居る。静寂。まもなく母が帰ってくるか。少し早期膨満のあった昼を終え、夕食がどうなるかを思っている。

一膳を食べるのが限界だったのだろう。それを認めたくないからなるべく摂ろうとしてしまう。もし夕食をよく摂れたなら、それは胃の持久力の証。またフラットに腹八分を維持していける。

不定愁訴はあり続けるのだろう。そのなかでも胃に持久力があれば、それなりの水準を維持できる。体力と体重の余裕。それはセルフケアで何とか出来ないものか。

かつての好調時はそうだった。運動が鍵だと思うけれど、今はその効果が表れない。心理的なストレスは一部軽減されているのだから、歩くなかで相乗効果があれば良い。運動によるストレス軽減と、不調コンプレックスの鎮静。

上向かないネックとしては、それなりに体力が満ちているということ。既に好調コンプレックスが湧いているためだ。それを鎮静化させるには、やはり豊かな満足が必要。認識による静穏には限界がある。前回もフィードバックをしたけれど、在りたい日々を得るべきだと着地した。

トラウマの本を読み進めると、摂食障害自傷行為についての章に当たった。そこで真の病理や画期的な治療法が表されている。そこで気になったのは、摂食障害の詳しいメカニズム。自己破壊行動の要因には、自律的に起こる感情や感覚をなだめる方法がないために、身体という資源を頼りにするということがあるそう。

幼少期の虐待によって、クライアントは過覚醒や副交感神経系の麻痺、不動状態を学習している。恐れているのは死ではなく、自らの感情。潜在記憶の感情に何とか対応するだけだ。身体を傷つけ、飢えさせ、その消滅を計画し、嗜癖的行動に強迫的になる。それは身体的および感情的な痛みを軽減するため。

過去の絶望的な状況において、最終手段として身体を用いることになった。愛着を奪われた子供が大人になれば、過覚醒を何とかしたり、衝動を正当化するために身体を利用するのは当然のこと。

身体への危害はアドレナリンの生成を刺激し、エンドルフィンが放出され、リラックスや無痛感をもたらす。トラウマ的体験による過度の覚醒状態を軽減させようとしているのだ。

 

自分は摂食障害ではないと思っている。拒食も過食もしていない。ただ、本質にあるトラウマ体験は通じていて、そのために誤診があったのだろう。

拒食に関しては全くその気はない。拒食をすれば感情や感覚は麻痺し、ケトン症によって活力や幸福感が得られるそう。

そして過食にも似たような作用がある。過食に続く嘔吐は背側迷走神経の活性化により、過覚醒が減少して痛みや過敏が緩和される。その神経は崩壊や擬死の生存反応を担うそう。

いったん自分たちが安全になれば、これらの防御パターン有用でなくなる。でも、パーツたちはまだトラウマ的引き金に備えて環境を検知し、独特の方法で対処しようとしてしまう。

それはあらゆる愛すべき人に反応する。抱えているのは病気ではなく、痛みだけだ。死にたいというのは統制感を得たいだけで、本当に死を望んではいない。

 

自分の無理のしすぎは、皮相的に見れば過食に見える。それはかつて絶望において頼った策で、身体を用いることで神経化学物質を放出させ、興奮を和らげていたのか。

ただ、自己破壊をしてはいない。そうしている人もその気はないだろうけれど、自分は意識にも無意識にもそれがない。根底にある愛着の傷、つまり虚しさへの恐怖、孤独、見捨てられ、無力感、絶望、これら脅威と暴力によるトラウマは経験していない。それに近い感情はあったものの、人格を奪われるトラウマではない。

ただ、フラストレーションを晴らそうとする心理はある。その内的な疲弊をなだめるためであり、本質には似ているだろう。在りたい日々を得ようと渇望するものの、それを手に入れるための手段がない。湧き起こるストレスや感情に対し、身体だけを頼りにしてしまう。

これらの核心は似たものがある。不調コンプレックスを鎮静させる手段と、構造的解離モデルにおけるパーツ理論も似通っている。過去の原始的反応をした自分に対し、今は安全だと意識が介入する。そうすることで今と過去の脅威が区別され、パーツや記録が顕在することがなくなる。

不調コンプレックスは、「死にたくない」というパーツによるもの。それに対して理知的に情報を与えることが重要だ。それだけでも安らげるようになる。

 

では、好調コンプレックスには何をすべきか。「好調でないとトラウマが再発する」というパーツや、「とにかく在りたい日々を得たい」というようなパーツによる部分的解離だ。

前者は主に家族との関係において発現する。劣等機能による事実を感じ取れなくなった時、盲目的に無理をしてしまうもの。それは不調コンプレックスに近いものだ。

問題なのは後者。在りたい日々を渇望しているパーツがある。前回も記したように、「今もそれなりに豊かだよ」とメッセージを送ったところで意味がない。本当の満足はないのだ。隠とんして娯楽に費やすだけでは満足できない。

内在しているエネルギーを実現するしかない。理知的に建設的な日々を得ること。それが原始的なパーツをなだめる方法だ。

 

死にたくない心理と、親やドクターに傷つけられたくない心理、そして豊かに生きたいと願う心理。前の二つは理知のケアによって落ち着かせられる。でも、最後の一つは行動しないといけない。そして実際に幸福になること。学ぶだけでは解決にならない。その段階に入っている。

運動などによって体力を付けるのは悪くない。それで社交における耐性に繋がるだろう。でも、それだけで全快させるのは無理がある。エネルギーの枯渇と不発は看過できない。

生きる力や創造の糧が強くある。それを適切にケアできない限り、無意識やパーツに支配される。それがノイローゼや解離だ。身体に由々しきことが起こり続ける。

そのトラウマの本の中には、愛着を愛猫から得ている女性が引き合いに出されていた。その人は統合を果たし、夢に見た普通の生活を送っているそう。

愛着は猫に満たされている。マズローは人間からしか欠乏は満たされないとしていた。これは一体どうなのだろう。自分もそれから愛着が得られた場合、少しは変わるかもしれない。

猫から正の感情を得て、好ましく神経化学物質を放出する。それで生存の確率が上がれば良い。愛し愛されている実感があれば、心身にエネルギーが満ちる。それが人間であるのなら、ストレスの軽減になるだろう。それに近いものがあれば、在りたい日々に近づくのかもしれない。

隠とん的でも満足があり、後は好きなように創造をする。それで良いのかもしれない。人間と付き合うには似通うものが少なすぎる。向こうから与えてくれるばかりなどない。

年金や貯金で生き、セルフケアによる体力や技術で自立をする。本を読み、思考し、記し、愛を感じる。どこか誰かと繋がり、たまに称賛され、自立や自活をしていく。それが良いのかもしれない。諦めも大切だろう。

 

また明日。

 

参考書籍: