欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

感情の代替 折り合いの壁

今日も曇りだ。午前と変わらず白い空が広がっている。ここ最近は雪が積もっていない。もうシーズンが終わったなら良い。そうなればもう、引け目を感じながら歩くこともない。親の負担も見たくはない。

午前に歩く。行く前の体力はそれなりの感じだった。朝食はよく摂れたものの、読書で少し疲弊していたか。ただ、躊躇なく歩こうと思えた。

最近の最長の距離を歩いたものの、途中で謎の胃痛を感じた。腹痛に近いような感じで、微妙に感じるそれが途中からあった。無事に帰宅はしたものの、不安もあって少し疲労を感じた。

胃痛はその後に収まり、内的に費やせたものの、どこか体力の不安が生まれた。やはりそれは欠けている。歩けるなら良いものの、以前と比べてしまう。図書館を一周できないし、去年と比べると全く違う。未だ不安定だ。

それをどうこう気にしても仕方ないものの、やはり考えてしまう。死の恐怖は和らいでいるものの、体重の意識はなくならない。死はまだ遠くにあるはずでも、余裕はあった方が良い。それに豊かに生きたい。みすぼらしい身体をなくしたいし、エネルギーに満ちていたい。

 

死の恐怖による反応は和らいでいる。それはかつての脅威であり、それなりに摂取が出来るのなら、ある程度は脅威がなくなる。それを理知的に把握し、コアの反応に届けること。劣等機能を用い、外から事実を取り入れることだ。

それによって好不調コンプレックスは和らぐ。死にまつわるものはそうだ。死の恐怖さえなくなれば、盲目的に無理をすることがなくなる。するともう一つの好調コンプレックスだけが残り、支障は時の運による食欲不振が多くなる。

 

死を脱却しようとするコンプレックスは二つある。栄養失調による死を防ごうとするものと、余裕を得ようとして務めるもの。後者はまだあるかもしれないものの、いま死の恐怖は薄いと感じる。影響するとしたら、親を喜ばせようとする方向で働くだろう。

今は死の影が遠い。今のネックはとにかく、満足のいく日々が得られないということ。それはトラウマによるネックというより、エネルギーの枯渇に対する反応だ。ストレスを弾こうとする原始的なもの。今の日々は身体にとって看過できない。過去のトラウマも少しよぎってくる。

そのストレスに対し、過去の絶望的な状況で頼ったように、身体という最後の資源を用いてしまう。こう記してみると、今もその絶望に近いものがあると感じた。トラウマからもそう考えられるし、アーロン博士の言葉を借りれば、「人からされた誤った接し方で、今の自分にも接してしまっている」ということだろう。

自分は偶然にも、"身体ばかりをケアされた"ということと、"身体だけを頼ってしまう"ということが重なっている。「身体が良ければ何とでもなるし、そうするしかない」と選択してしまう。今もかつてのような脅威があると錯覚してしまうとだ。まずは今は安全なのだと理解すること。それが前述の過程だ。

不調コンプレックスを鎮めるのにはそれで良い。ただ、「在りたい日々を生きられない」というストレスや高ぶりがあれば、それにどう対処していこうか。やはり真の満足がないといけない。かつての脅威が蘇っている訳ではない。理知の力でも何ともならなければ、それは身体を用いるしかない。その癖の方が蘇ってしまう。

 

今もそれなりの生活だと暗示するか、猫にでも居てもらうかだ。猫と愛を与え合えたら、それで擬似的な愛着は築けるかもしれない。外の世界に出る資源にはならなくとも、親密さの獲得や、見捨てられる不安は解消されるか。

それで心身にエネルギーが満ち、ストレスが和らげば良いものだ。劣等機能による温かな感情の感受と、生存確率の向上。それは治癒をもたらすものだけれど、それを猫で代替できるのか。人と過ごさないといけない気はする。

仮に猫で心が満たされたら、後はバーチャルで所属や尊厳を得るかだ。所属を得るには会社に勤めるか、かつてのコミュニティへの回帰、あるいは趣味を通じた関係を築くことだろう。

現実での関係は組織に属すことで、仮想では何かの類に結びつくものだろう。仕事や学業、趣味、病気もあるはず。何かの関心を元に繋がれるはず。そこで所属は満たされるのではないか?現実で付き合うには無理がある。

 

それで満足が出来れば、少しは活路が開けそうだ。猫と戯れ、オンラインで人と繋がり、好きに創造をしていく。自分は暇を認めてもらえるだろうし、生活の束縛はない。だから気楽に積み重ねていけば良い。

それである程度の体力も満ちれば、自立や自活へも近づく。後は社会の進展を待つくらい。技術による生産と扶助、セーフティーサービスの拡充を待つ。

いつかは生活が変動するだろうし、少しは良い変化もあるだろう。家族に変化があったり、自分が行動を起こすかもしれない。社会も変わるだろうし、技術の進歩で福祉も変わっていく。中年くらいには格段と変わっているだろうから、今頃に生を受けていたかった。

 

都会で暮らせるのならば、後は何とか基礎的な体力を得れば良い。そうすれば何とでもなる。とにかく引っ越しをしたい。居場所で人と過ごし、外に出る経験を積む。そうして自立していけば良い。

もうすぐ通院日だ。直近の摂取は安定している。体重も先月より増えている。このままの調子でいけば、診察は軽く済ませられると思う。

先月は死の事実について尋ねようとしていた。そう考えるとかなり進展があるか。たった一ヶ月でもそう。すべきことは社交のみになっている。そのための化学物質を処方してもらい、出ていくことも良いだろう。

ただ、現実的な壁はある。何十キロメートルもの距離を通うのは難しい。ましてや見知らぬ場所だ。そこに適応する意義はあるのか。身近に親密な人が居て、場所もあって、そこで心身を鍛えるのが一番。

昔は小学校がそれだった。その頃は普通でいられた。そこで心身が満ちれば、就職や免許の取得だって出来るかもしれない。

改めて都会であれば免許は要らない。それが悔やまれる。とにかく楽に通える場所でないと意義がない。オンラインで面会が出来たとしても、それはSNSでの繋がりと何が違う?居場所で全快や社会経験を積むのは難しい。だから折り合いを付けたいのだけれど、この町でそれは通用しない。

 

こういった思考を全て吐き出したい。そう共有することで策が生まれるかもしれない。居場所とオンラインで繋がれるかもしれないし、基礎的な体力を付けるための方法も得られるかもしれない。心身や社会的な問題を伝えること。それだけでも意義があるだろう。

不調コンプレックスは鎮静したものの、好調コンプレックスはそういかないこと。無理さえなければ上向くこと。所属や愛を現実で得るか、代替して獲得するか。それによってノイローゼを癒すこと。心理の構造、体重の維持、社交の可能性。

まだ選択肢はあるはず。じっくりと真剣に向き合えば、何かの策は浮かんでくる。

 

また明日。

 

参考書籍: