欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

交遊と愛着 不可侵の立場

午後の今は晴れたり曇ったりしている。今晩から荒れるそうだけれど、本当にそうなるだろうか。二月もあと一週と少し。道端の雪はまだ減っていない。それもそうか。やはりもうひと山が来るのか。

昨日の夕食はちょっとしたアクシデントがあり、微妙に最良ではなかった。いや、快く満腹にならなかった。一膳は食べられたものの、少しきつさが残ってしまった。

体重はぎりぎりで踏みとどまっていた。これは普通の人の感覚にはないもの。普通で自然なら腹が空き、快く食べて力が満ちる。だから自分は普通ではない。

ここ直近では食欲が薄くなった気がする。以前は一喜一憂の波があったものの、今はそれすらない。本当に最低限の摂取で終わってしまう。このままじり貧で変わらないのかと怖い。

やはりいつかは好転するのか、それとも張った弦が切れてしまうか。それは神のみぞ知ることだ。何だか気分が傾いてきたか。

 

今日は元気はつらつではないものの、暇を感じる。読む本がないからではあるけれど、読むものがあってもそうだろう。朝からやることがない。ここで何をすれば良いのだろう。自分は何をしたいのだろう。

読み物は頭が新鮮でないと意味がない。長く詰め込んでも意味はなく、こまめにつまむしかない。気が向いたときに読むのが良い。すると大概は暇になる。だからそこでリラックスしていたい。

社交なりによって満足を得れば、病に苦しむこともない。公的に暇は認められ、労働の義務もなくなる。後は好きに勉強と創造をすれば良い。気の向くままに人と会い、気の向くままに学んだりする。アウトプットも急かされることはない。

 

母から自立を煽られなければ、ゆっくりと過ごしていれば良い。家で過ごすための体力を維持し、貯金とやがては公的扶助に頼ること。そうやって生きても良い。

実生活でも技術やサービスに頼れば良い。それが不自由のある小さな人生だ。公的にも立場を守ってもらえたら、最低限の体力さえ携えれば良い。

それを目標にせざるを得ないかもしれない。だからあまり責められたくない。そこにさえ届けば良いのだ。とにかく不可侵でいてほしい。機会があれば話すべきだろう。

 

今の生活でも極度に痩せている訳ではない。危険な状態は自分でも解る。まだ生死には関わっていないはず。散歩も少しは出来るし、入浴が辛くはない。

何もしなくても辛いのは危険だ。だとすれば、それで良いのではないか。家で軽食作りさえ出来れば良い。その体力だけで生きていける可能性はある。そして立場も守られる。

午前は身体にエネルギーを感じなかった。エネルギーの枯渇もあれど、命がしぼんでいるような気もした。腹もべっこりと凹んでいたし、良くなる兆しを感じられなかった。散歩も短距離で参ってしまう。

あるブログを読むと、この生活ではいけないと思う。でも、どうすれば良い。個人的にはまず愛着を築くこと。それが奏功するか次第だ。そして自然に触れ、腸の細菌に良い食事をする。それが究極の健康法だろう。

ひとまずは来月の診察まで耐えたい。とにかくそこで薬を変えてもらう。話はそこからだ。頓服の消化酵素を常用する。そこで上向かなければ、そこで悲嘆すれば良い。だからまずは耐える。

あるブログをよく読んでいるけれど、なかなか知力が追い付かない。もちろんその方は何万時間も費やしただろうから、これは自然なこと。でも、処理が進まなくてもどかしい。

断片しか掴めなくて困惑もある。勉強する書籍がまた増えた。まだまだ学び続けないといけないのか、やはり交遊の切っ掛けを掴めば良いのか。

とにかく社交の効果を確認したい。それであっさりと上向くかもしれない。学舎にいた頃は少食で済んでいた。それが駄目なら励む必要がある。

自律神経の新理論を学ぶ。そして腸やリラクゼーションについても知る。いや、まだトラウマの大著も残っている。とにかくそこを押さえ、愛着によるリラックスをしたい。

 

また明日。

 

参考書籍: