欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

下積みと軸 目的と目標

今日は雪が降ったり曇ったりしている。午後になって風が強くなりだした。もう雪は積もらないかと思っていたけれど、すっかり路面は白くなった。かくまでに到らなければ良い。

昨日の昼食後の収まりは微妙だったものの、夕方の前には空腹になっていた。そこで食欲も湧く。無理はしていなかったのだろう。その理知はあった。

夕食ではちょうど満腹になってしまったけれど、頓服を飲めば何とかなるはず。あまり理知が働いていないけれど、その頓服によって問題になっていないはず。やはり常用していたい。その力に頼っている。

 

今日の朝食と昼食はよく食べられた。夕べは少し胃の収まりが悪かったけれど、これも頓服が効いたと思う。翌朝の胃はフラットになっていた。

朝食はよく食べられつつ、余裕をもって抑えられた。それによって昼食も快適に迎えられる。これは良い流れだと思う。夕べはまた体重が増えていたし、良い兆しがある。散歩の距離も延びている。悪くない。

新しい書籍が配達されるまで時間が空いたため、別の読みたかったものを読んでいる。様々な認知が得られて有益だ。そういった本というのは、何時間もかけて吸収・思考した蓄積がある。

それを数時間で読みきれるのだから効率的。タイムマシン的というか、擬似体験的なものがある。自分の経験だけで生きるのは脆い。思考や情報なども、それぞれの人生分を吸収できる。

 

今朝にその読み始めた書籍を読破した。これから再読をする。そろそろ勉強の書籍が届く見込み。フィードバックの認知は得られなかったけれど、フローの更新はしなくて良いか。

フローの更新でブログを記す必要はあるのか。コンテンツクリエイターとしての下積みとしてすれば良いのか。目標を定めたいけれど、どこに終着点があるか分からない。なにより楽しめていない。

ビジネスとして割り切れないし、無垢で純に記す意欲もない。知恵や意見を表明するか、情報をまとめて販促をするか。そのどちらにも振りきれない。何のために発信をすれば良いのだろう。

 

ブログを蓄積させるべきか、フローだけで十分なのか。いずれにせよ、最終的にどんな形にしたいかが明白でない。ファン・娯楽ビジネスか、コンテンツクリエイトやアフィリエイトなのか。

自分のアイデンティティーが何なのかも揺れている。病を記録したり、魂の旋律や生きた証を残したいのか。記録はしたいけれど、そこまで強くはない。あるとすればビジネスに繋げたいということ。でも、そちら側に振りきれない。

内面の吐露が過重になっていると思う。大勢には見られたくない。第一にそれが有益なものかも分からない。フローとストックをどうやりくりすれば良いのか。

日をまたいでまた記している。夕べも食後の収まりが悪かったけれど、翌朝になるとフラットになっていた。胃の状態が悪夢に繋がっていたと思うけれど、それに反して気分は悪くなかった。

朝食は最良の量を食べられる。余裕をもって収められたと思う。平均の摂取量が増えてきた。読書も長く出来たし、散歩にも出られ、図書館を一周した。そこで消耗しなかったため、かなり力が満ちていると思う。

昼食も食欲があり、早期膨満が薄かった。腹は下したものの、すぐに胃の状態は和らいだ。これも食べすぎなかったからだろう。よく食べられつつ、無理はしなかった。これも順調に上向いたからなのか。頓服は昼と夜の毎回で飲んでいる。

ポリヴェーガル理論を提唱した方の書籍が届いた。書籍の大きさは少し小ぶりで、ページの文字もあまり凝縮していない。意外と読みやすいと思う。丁寧に読み進めよう。急がば回れ

 

ふと毎日の過ごし方を思った。日々なにをしているかと言えば、勉強と創造の積み重ねをしている。他は通院くらいしかない。生活のことは家族がやってくれている。

下積みとして費やすのは良いけれど、あまり先が見えない。有意義なことだとは思うけれど、それが人生の目的ではない。社会交流と仕事を見つけるのが最終的な目標だ。

せめて日々の満足はほしい。そう思った。このまま読書だけの人生になるのかと思った。どうなるのだろう。

大人として自立自活し、健康を保って仕事をする。身の回りのことを自分で済ませ、当たり前の自立をし、満足のいく創造的な毎日にする。自立、自活、健康。これをまともに出来ただけで幸せだろう。

いや、それは誰しもそうか。人生の形を思索できただけ良いかもしれない。それが下積みか。早々とドロップアウトしても、それによって人生の軸を明確に出来る。それがないと「実は空虚に生きてきた」と振り返るかもしれない。だとすれば、これも急がば回れか。

 

また明日。