欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

必要な努力 過去と成長

今日は曇ったり晴れたりしている。午前に歩いた時は薄雲が広がっていた。暗くはなく、光には鮮やかさを感じる。

予定はなく、変わらず色々と学ぶ日々。そして表現をしてみている。もっと認知されるようにすべきか、別のことをした方が良いのか。どうにもよく分からない。

束縛なく楽しく積み上げたい。今は欠乏を満たすべく、習慣に縛られている。それは楽しくないし、習慣の外に出ると堪らなくなる。生活の全てを作業や表現に繋げ、有益な創造に費やしたい。

でも、それは下手な努力だし、それを迫られる状況でもない。あるのはいったい何なのか。やはり焦りがあり、自活をして社会的な存続を保ちたいのか。それとも欠乏を満たすための適応機制か。

 

ずっとふわふわしているようだ。公的にも個人的にも煽られることはない。年老いた人と同じように、自立や自活が出来ないのを責められはしない。でも、それは形式上であって、家族とは死別が待っている。だから煽られるのはある。

そして自分にその気持ちがある。自立をし、健康に自活をしたい。その三つによって存続を保ちたいし、可能性を活かせないのは堪らない。

だからとにかく有益で生産的に過ごしたいと思う。そのための行いを見つけたら、それを徹底的に習慣にする。そこを外れてしまえば、無駄を思って唾棄したくなる。

 

習慣から解放されたい。それは何回も記してきたし、そのための方策も考えてきた。でも、日々は全く変わっていない。上述の三つは得られていない。

「体調にまつわる自尊心コンプレックス」とはよく言ったもの。体調が良ければ自立でき、自活もしていたかもしれない。今もそれを渇望していて、それに繋がらない日々はまた唾棄したい。これは資本主義の毒なのか、そんな大仰なものではないのか。

昨日の昼食後には間食を摂れ、その後の収まりも良かった。フラットな状態で夕食の漢方を飲む。夕食では早期膨満も少なく、昨日よりも何口か食べられた。

体重は百グラム増加していた。また同じように食べられたら上向きそう。無理をせず、早食いもせず、快適に満腹を感じる。それが続けば自ずと変わるはず。

 

朝食は最良の量を上回って食べられた。夕べは寝る前に何か食べたくなったけれど、夕食の収まりが悪かったため、そこで無理をすることはなかった。その効果で今朝はよく食べられたはず。やはり無理をしなければよく食べられる。

昼食もよく食べられたけれど、よく食べられるのがかえって悪く働いた。するする食べられただけに無理まで達した。嗚呼、これが自尊心コンプレックスか。身体さえ良ければ全てが良い。

消化酵素を常服しているけれど、その効果は得られるか。とにかく無理をしないのが理想。ここで消化の助力があれば、胃の持久力は上がっていくはず。でも、そこに無理はないようにしたい。

理想の生活スタイルは、家庭と過ごす時間が三割、社会活動・交流も三割、そして内的な時間が四割ほどだと思う。家庭でパートナーやペットと過ごし、仕事や刺激的な交遊をして、後は静かに過ごす。本を読んだり考えること。

このバランスが理想的だと思う。今は内的な時間しかない。それも束縛のある時間。それでいて生産活動になってはいない。必要な用事をするのも嫌気が差す。とにかく時間を有意義に使いたい。全ては生産のために。

 

改めて記すけれど、最近はフィードバックの種がなくなってきた。その勉強の配分も少なくなったか。もう結論は出ていて、後は社交をするしかない。

今はビジネスや発信、創造についての関心が湧いてきている。それと理想の生活についてだ。各メディアの活字や情報と睨めっこし、後は色々と考えている。それは有益だろうけれど、それも習慣の一部となっている。全てを早くそれに費やしたく思う。

あるブログに若者へのメッセージがあった。そこを運営されている方は、自立が出来て満足もいっているそう。六年前に記されていた。

どんな仕事をされているか分からないけれど、年月を経て変化があったのだろう。それは努力を迫られたからか。どうにも羨ましくある。自分もそのようになるのだろうか。

歳を取って経験と自活力を携えたい。そうなれば生きやすくなるはず。若さも取り柄ばかりではないはず。

 

その方が記していたことを含めて考えると、仕事はこう選べば良いと思う。好きなことを仕事にするよりも、自然に出来て人の役に立つことを仕事にすれば良い。

好きなことで人の役に立つとは限らない。人に「何でそんなことも出来ないのか」といわれたものが不得意なもので、その逆が得意なこと。「何で自然にそれが出来るのか」と、人に有り難がられるものが得意なこと。

それを人から伝えられるのが良いけれど、自分は早々にドロップアウトして経験が薄い。その場合は、誰かに思う「何でそんなことが出来ないのか」をしてあげれば良いはず。それは自然に出来て役に立つ。それを展開するのに苦は少ないはず。

 

自分には何があるか考えた。浮かぶのは"人の文章の粗をすぐ見つけ、直したくなること"だったり、"病める動物への好ましく接すること"だと思う。ただ、上述のようにそれで褒められたことはない。

もう一つあるのはこの蓄積か。勉強し、情報や知見を集めること。それをまとめて言語化したりして、人に教えてあげる。人に色々と講釈を垂れたくなったりする。色々なテーマで意見を持っている。それをアドバイスとして投げてみること。

世界には自分の何年か前の悩みを抱えている人がいて、その人は解決策を求めている。この僻地にいる自分が悩んでいることは、世の中にまとまった数で存在するだろう。だからその人を救うために伝えてあげる。

 

コンテンツを生み出すのは簡単ではない。必要なのは人間としての魅力だったり、誰かに役立つような知見だ。前者は不確定なものだけれど、後者は分かりやすい。ここ何年かで成長しているのなら、かつての自分に向けて発信をすれば良い。

過去の自分や悩んでいる人に発信する。そこで魂の共鳴があれば良い。仕事になるかもしれないし、共に人生を歩むかもしれない。

この発信もここ何ヵ月かの自分に役立つか。きっとそうだと思う。そして他者の役にも立っていれば、何かに繋がる可能性はある。だからやはり認知を広げるべきか。

また立ち戻ってしまった。これも下積みで、必要な努力なのか。

 

また明日。

 

参考文献: