欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

自活と健康 必要な認識

今日は荒れた天気だ。夕べは珍しく強風が吹き、怖さを感じる程だった。建て付けの悪い我が家は音がしてしまう。その荒天がまだ続いている。

それで今日は歩かない。もちろんのことだけれど、冷静に考えられたと思う。午前の隙間に落ち着いた時間はあったけれど、気が乗らなくて歩かなかった。

それで良かった。昼食の食欲には全く影響しなかった。いつも歩くのは親の目があるから。積極的に歩くことでこもりすぎをごまかしたい。特に意義はないのだし、無理をしなくても良い。

 

公的な扶助は得られなかったけれど、自分は働けないのが明確。だから公的・個人的にも暇は得られている。それで良いだろう。まずは自分が認識を整える。自分に必要なラベルはもう得ている。今の神経生理学的な状態も学んだ。

だから理知の上では自尊心を堅持しなくても良い。それとは何も関係がなく、まず責めを負ってはいけない。必要なのは今を有り難がること。今が生存と存続に役立っていることを知ること。それは責められるものではなく、自分が責めなくても良い。

だから楽にしていれば良い。扶助は得られなくとも、歴とした病気はある。貯金なんていつか食い潰せば良い。そうなったらありったけ胸を張って役所に行こう。

 

それで良い。身体は周囲や世界へメッセージを出している。それが立派なコミュニケーションだ。そしてそれは生存をもたらしている。だから、それをより磐石にし、後の生活のために積み上げれば良い。

何も気負うことはない。これが自分の世渡りで良い。生き残ったなら良いだけだ。生存を確保して努力できるようにすること。それが肝要で、その環境さえ手に入れてしまえば良い。

いつか幸せになれるだろう。全てに意味はある。今の出来事は相補的な未来に繋がっている。後はその地点を見つけて辿るのみ。それで良い。

 

ポージェス博士の言葉をまとめよう。時に神経系は、命を救うために機能的に意思を裏切るということもある。ただ、発達過程においてある種のトラウマや問題を体験しても、脳から内臓へ働きかけることは可能だそう。認知の力を使って再び機能を回復することも出来る。

脳に情報を取り組み、文字通り自分で自分の親、教師、セラピストになることが出来る。これはアーロン博士が記していたことと重なる。新しい情報を取り組むことが出来ると、行動や思考を修正することが出来る。解離の書籍にも同じようなメソッドがあった。

 

子供時代に何かが欠落していたからといって、必ず人生に失敗するといった運命論に支配されたトラウマ治療を行うのは好ましくない。人間はより高い回復力を持ち、柔軟で適応的に生きることが可能だ。

過去において傷付けられた出来事の多くは、悪意のない無意識の適応行動によるものだったと理解できる。それが始まりなのだろう。自分をケアした人に悪意がなかったなら、その人を責めても始まらない。だからといって、自分を責めるべきでもない。

あるのはただ生理学的な反応だけ。それが生き残りを助けたという事実。ひたすら理知的に勉強し、運命を切り開くしかない。過去の傷から逆算し、在るべき未来へと辿ること。

夕べはそれなりに食べられた。ただ、それもやはり最低限の摂取に過ぎないか。それは体重が維持される程度のもので、実際に計測では変わっていなかった。

全く余裕のない水準だ。あと五百グラムは確保したい。そこまで底上げし、そこを維持すること。そしてやがては大台に戻る。

でも、それは今の状態では難しいのか?頓服の効果が現れない。それが効かない体質にでもなったのか。だとすれば恐ろしい。もう手段がない。

 

朝食と昼食はよく食べられた方。ただ、これもやはり最低限でしかないだろう。明確な調子の変化がない。「気が付けばよく食べられた」くらいでないといけない。

それを全く感じない。そのように肥えれば良いけれど、一体どうなるだろうか。無理なく食べ続けることで変化があるか。ここ直近では落ち着いて食べられている。それで上向けば至高だ。夕べの計測でどう傾くか。

セルフフィードバックの目処を考えていた。それに繋がる認知はトラウマについて。後は不安などのセルフケアか。それ以外にも何かあるだろうか。手を広げれば無尽蔵でも、必要なのはそれくらいだと思う。

となると、向こう半年でそれを終えられそう。後は気になったものをつまんだり、マズローなどを再読すれば良い。直接のフィードバックはなくなるはず。

ずいぶんと暇になるかもしれない。そこで社交の機会があれば理想だ。健康と執筆。嗚呼、ここに扶助があるのが予定だった。無情だ。

 

セルフフィードバックは軸が多すぎる。エッセイ、コラム、記録・闘病記。検索流入と反りが合わないし、交流するのにパーソナリティーが定まらない。

誰かに受信してもらって価値を見つけたいけれど、それが難しい。でも、自分でそれなりに把握は出来る。テキストコンテンツで勝負するか、情報をまとめることで勝負するか。そのどちらかだろう。

エッセイを中心としてファンになってもらうか、コラムや問題解決として人の役に立つか。前者は直接の課金で、後者は販促によるマージン。

どちらを選ぶかだけれど、どちらも選べるだろう。セルフフィードバックは煮詰まり、まとまったコンテンツになっている。その価値は置いておけば、次の局面で情報をまとめる作業が出来る。

ファンを生みつつ、誰かの問題も解決する。かつてと同じような悩みを持つ魂を救う。自分が普段から簡単に出来ることは、情報を集めること。それが面倒だと思っている人からすれば、役に立つかもしれない。同じ悩みがこの世にもあればだ。

 

もっと交流がしやすい場所へ行く。市場性のある場所でないといけない。そこでテキストコンテンツをまとめる。それでどうなるかだ。それが完成すれば、情報をまとめることに移る。検索の流入に合うことをする。

でも、儲けることはなさそう。それは価値があったとしてもだ。そしてそれがない可能性もある。あるブログの方も収益は少ないそう。やり方の工夫で何とかなるのか、そうならないのか。よくは分からない。

昼食中に書留が届いた。それは自分の基礎年金の通知だった。どきどきしながら封を切ると、書類の下の方に"棄却"とあった。

嗚呼、溜め息ばかりだ。色々と整理している。ドクターを信頼できなくなるようなラベル・認識と、誤ったラベルによる汲まれなかった不自由。嗚呼、医学とは、通念とは。本当に馬鹿らしい。

いや、それをずっと前に感じたからここまで学んだ。今のドクターにそう診られても仕方ない。どんなドクターでも同じだろう。それをパーソナリティーに組み込んではいないのだから、使えるだけ使い倒せば良い。

いや、それが出来るなら良かった。それが使えないことが解った。だったら何のために貼られ倒してきたのか。全ては公的な扶助のためだった。あるいは関係者に理解されるための印。

でも、それは必要ないだろう。扶助がなくても免除があれば良い。そして対人関係ではニーズだけ伝えれば良い。特に問題はないはず。

後は自活をして健康になれば良いだけ。今日もそうやって考えて記した。そのためにずっと学んでいる。多少は習慣にも意味があるか。もうそれで良いだろう。

こう記したエントリーの価値は何だろう。ただの人生哲学くらいか。情報は特になく、あるなら病める同類を引き付けるものか。それが実際にあるのなら良い。それで何とか拓けてこないものか。嗚呼。

 

また明日。

 

参考文献: