欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

気楽な展開 役割と自分らしさ

午前は曇っていたものの、午後になって鮮やかに晴れだした。かなり気持ちの良い晴天。春の心地といったところ。久し振りの気分を感じられる。

ただ、午前に歩いたため、もう歩くことはないか。昼食が腹に溜まっているし、どうにも残念だ。食べる量を少し見誤り、またぎりぎり満腹となってしまう。どうにも難しい。

夕べはよく食べられなかったものの、無理をしなかったのは効いた。好調の時も不調の時もそうなのだろう。とにかく無理を減らすことが大切。それがリズムを作る。

昨日の昼食後の収まりは微妙だった。間食は少し食べられたものの、夕方までにはっきりと空腹は感じなかった。食前の漢方を飲むと状態が悪くなる。

食欲が減り、食べ進めるのが少しきつかった。一膳は食べきれたものの、それで精一杯だった。また腹が膨らまない。そして計測では微減していた。こんなことばかりだ。

 

前回の診察から二週間が経つ。頓服の効果は全く見られない。MBTIによる捉え直しをしてから、不確かな心象がもたらす恐怖はなくなった。それで死の恐怖は減り、無理も落ち着いている。

でも、とにかく余裕を求めている。好調コンプレックスは影を潜め、自立のためのコンプレックスが強くなっている。不調コンプレックスから派生したその無理も多い。自尊心コンプレックスの一部だ。正の感情を得たいというより、自立と自活によって自尊心を保ちたくある。

今の体力によるだと思うけれど、理知的には対人関係を求めていない。社会的・個人的な存在保証がほしいだけ。それは自活と自立によるもの。何とか自活をすることと、体力の余裕をもって生きること。それだけを渇望している。

 

直近で病的な無理はほぼない。でも、今度は食欲と早期膨満が問題になっている。食欲が安定せず、早期膨満もよくあり、何気ない満腹がぎりぎりのものになっている。そうなると次の食事にも影響する。

それが厄介だ。何でそうなるのかは分からない。以前は何故それがなかったのか、頓服の効果はないのか。去年もきつくなることは多々あった。それでも調子が上向いていたのは、運か生活習慣なのか。晴れの日によく歩いていたくらいだろう。

 

これを背側迷走神経による冬眠と見なせば良いのか。体力の低下はなく、歩きにもそれなりに出られる。ストレスはあまり強くない。この状態でも許容できるのか。

移動のサービスさえ使えれば良いとするか、生存を磐石にさせる必要があるのか。何もしなくても辛いことはなく、移動サービスがあれば出掛けられる。それを構築し、後は自活をすれば良いのか。体力を追い求めなくてもだ。

どちらにせよ、ほとんど成す術はない。このまま朽ちるのか?あるいは消化酵素と散歩の効果が出る?自然の畏怖を感じれば脳内物質が湧く?自活だけに目を向ければ良い?答えは出ない。ただ変わらず過ぎるのみ。

今日も同じ習慣で生きている。読書をし、各種のメディアからインプットする。書籍、短文、音声。そして日記やフィードバックを記す。そのための二十四時間だ。他には何もしていない。

でも、それに生産的な価値はない。その目的を中心に据えているけれど、束縛的な習慣に意義はない。ただの習慣による無理になっている。これが自活に繋がるのならば良い。

アウトプットに価値は伴わないのだから、せめて楽に積み重ねていきたい。そのための工夫はして良いはず。それをすべきくらいだ。コンテンツの中身を充実させ、より簡単にそれを生んでいく。そのための工夫は今すべき。

自分の好きなことを中心にするのか、人の役に立つことをするのか。アイデンティティーを展開するのか、既存のニーズに基づくのか。どれも選択できない。生活の全てが習慣によるため、何が好きで簡単に出来るのか見失った。

 

人には役割が必要だそう。何かで人の役に立たないといけない。本当に何もしたくない人はいても、自分はそうでないはず。病気になるほど社会交流が必要だ。人との交流が必要で、フラストレーションを晴らさないといけない。

何をすれば役に立てるのだろう。それを日常から見つけ、とにかく展開してみれば良い。好きなこと、簡単に出来ること、人の役に立つこと。それらの三つが重なれば敵なしだ。

好きなものなら自然とインプットが高まる。それを簡単に表現できたらなお良い。それが何かの役に立ったら至高。あるいはそこから逆算すれば良いのか。

誰かに役立ったことを思い出し、好きで簡単に表せるものを見つける。すると遊びは義務となり、義務は遊びとなる。日常の全てが意義深くなる。

 

自分が好きなのは、スクリーンを眺めることくらいか。それで人の意見や言葉を読むのが好き。読書も好きなのだけれど、それは話が変わってくる。読み上げるのと理解するのは別だ。それがネックとしてある。

簡単に出来ることとしては、思考や意見を言語化することか。いや、それを楽に出来る時はあっても、何かの価値を付けようと思ったら大変になる。自然と何かを記したくなるかもしれないけれど、それを綺麗な形にしようとするときつくなる。

何が人の役に立つかも分からない。人に喜ばれた経験がない。人の粗を見つけられたら良いのか?自分の成長が役立たないと始まらないだろう。アクセスを集めるのは無理だし、形式ばった販促をするのもつまらなそう。

となると、残りは意見とノウハウを発信することくらい。自分を救うことにより、同じ悩みを持っている人を救う。

 

ほんの一瞬だけ更新を止めてみようか。いや、別に誰も見に来ていない。だから読書も定時に読むことをせず、ただ思い付いた時に読み、記したい時に記す。それで価値が付けば万々歳だ。

何も考えず、ただ好きなことや出来ることをし、気楽に表現・創造を発信する。それが良いだろう。それで何かに繋がることを祈る。なるべく人通りの多いところでする。それだけで良いはず。

アイデンティティーを発展させれば良い。自分らしく人の役に立つこと。内向直観の才能を活かすも良し、成長を売るのも良し、ただ読んで記すのも良し。

いや、聖職的な支援をし、フィードバックのメモを残し、気楽に読み書きを発信すれば良いのか。ペットと触れ合い、現実的な悩みを解決し、自分らしさを展開させる。そうしてしまえば良い。

 

また明日。

 

参考文献: