欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

安全な不動化 畏怖体験と神経系

今日も晴れている。まだ四月の中盤にも関わらず、夏日を記録した地点があるそう。もう暖房を使っておらず、服装も少し薄くしている。夏頃にはどうなっているのか。温暖化の影響なのか?

 

夕べはよく摂れなかったものの、計測では微増していた。底の数値より一キログラム増えていたか。食欲が薄くてもその結果だった。そこまで快調ではないものの、調子が変わっているかもしれない。尿量の誤差もなかったはず。

強いて挙げるのなら、諦めに近いような無理の抑制があるか。ここ何日間はそうかもしれない。三食でも過度な無理は少ないし、間食でもはやる気持ちも薄いか。意識や認識を緊張させているのではなく、気楽に感じられている気がする。

摂取量の内部信号を受け取ること。体重が大台へ戻れば、去年の春頃まで近付くのではないか。そうなれば最低限の体力を得られる。すると現実的な自立が見えてくる。

私たちは、生き残るためにお互い頼り合います。まず、生まれてすぐに、養育者からの世話を受けなくてはなりません。その後は、親密なつながりの時間を継続するために、私たちは防衛を解除し、安全な不動化の共有体験に入る必要があります

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P254

どうやって不動化しない相手を見つければ良いか。ペットくらいが現実的か。公的な居場所は何十キロメートルも先にある。そこで社会交流をしたとしても、その不動化の体験をするのは難しいはず。近しい人でないと始まらない。それは地理的に近い人。対人での社会交流は棄てざるを得ないか。

畏怖は驚異の感覚をもたらします。中略 私たちは、畏怖の瞬間に、自分の存在を小さく感じ、同時に、自分よりずっと大きな何かとつながります。このつながりの感覚は、私たちを分け合い思いやる喜びへと導きます。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P260

畏怖は物質的な物や社会相互作用というより、むしろ自然、芸術、音楽の中にある豊かな体験を通して祝福へ導く。畏怖体験は、孤独で時間が遅くなるように感じる静けさの瞬間にある。孤独がちな人であっても、リソースになる畏怖体験と繋がれるそう。小さな畏怖の瞬間を味わうことを重ねることで、やがて腹側迷走神経系の能力が築かれていく(セラピーのためのポリヴェーガル理論 P260)。マズローの至高経験を思い出した。

遊ぶこと、安全を感じながら静けさの中にいること、日々に畏怖体験を味わうこと、高揚感を味わって鼓舞されることがないと、日常生活の活気が失せてしまう。これらの体験を少しずつ味わうことで、神経系は整っていき、よく生き、よく愛する人生を歩むことが出来るようになっていく(セラピーのためのポリヴェーガル理論 P264)。

アーロン博士もこのように記されているはず。生理学的な状態の調整と、畏怖や高揚などの精神的な刺激。センシティブパーソンは特に自然が必要で、親愛なる関係もまた必要。それはタフネスパーソンよりも重要でないか。協働調整、自己調整、自然。もう一度アーロン博士の読み直そう。

コンテンツクリエイターならば、種が尽きないアウトプットをすべき。そうしないと始まらない。そのなかで、文章の産出が尽きつつある。これをどう捉えていこうか。

文を記した始まりは記録が大きいか。六・七年前の入院の際、体重と入院の記録を始めたのが切っ掛けだった。それが日記になっていき、段々と辛さの吐き出しに変化していった。

もうそのエネルギーがなくなった。記したいことがない。フラストレーションもないし、記録したいこともない。そして何か別のエネルギーが生まれない。一つの区切りか終わりが来たか。

せめて過去のストックを活かすか、他の種類の表現に移るか。いや、思考と文筆しかないと思う。文章を仕入れて新たに製造する。それくらいしかないだろう。読書と思考と表出。後はそれによる選書か。

セルフフィードバックを活かしつつ、それに繋げる。では、今は何をすべき?フローの更新を止める?後は純粋な日記だけで良い?何をストックに留め置いておく?これに市場からのフィードバックがあれば良かった。

 

また明日。

 

参考文献: