HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

情動と覚醒の調節 助けと同調

今日は晴れている。昨日は雨で冷え込んだけれど、今日は暖房をつけなくても良い。連休に入った世の中で、変わらず日々を過ごしている。家族の帰省もない。祝日に挟まれた平日が通院日だ。どのように迎えるのか。

一昨日の計測では大台を割っていた。その前の夕食はぎりぎり最良で、腹は快く膨らまなかった。昼食を好調で迎えられたため、そこで満腹になってしまっていた。

腹八分と九分をなかなか感じられない。食べたくて食べているけれど、それで限度に達してしまう。

これがなくなると上向くはず。でも、微かに満腹の内部信号は感じているか。その時に意識の力で抑えるしかないのか?それがどうにも難しい。

 

一方、夕べの計測では大台に戻っていて、更に上回っていた。夕食までに空腹になっていて、楽な胃で摂ることが出来た。大食しないようにしても腹が膨らんでいた。

快適な空腹を維持し、腹八分で収めていくこと。それがまた快適な空腹を維持する。それだけで状態は上向く。

改めてその感触を得られた。その肝は何回も思い知っていて、その意識を維持していけるかが問題。いつも気が付けば苦しくなってしまう。そうなってようやく気付く。

それが摂食の障害ということか。そういうことでもある。一時的な意識の解離だろうか。ふと自我の影響力がなくなる。するとコンプレックスに乗っ取られ、強い情動にかき回される。それが満足して去れば、ありのままの自我が苦しさを抱える。

 

『身体はトラウマを記録する』にはこう記されていた。

精神疾患の診断基準となる具体的症状ではなく、 精神的な苦しみの本質に目をやれば、 そうした苦しみのほとんどが、 きちんと機能して満足の得られる人間関係を築くのに支障が出ること、 あるいは (絶えず激怒したり、機能停止に陥ったり、過剰に興奮したり、混乱している場合のように) 覚醒状態を調節するのに手を焼くことのどちらかと関係しているのがわかる。たいていは、その両方の組み合わせを伴う。標準的な医学では、特定の「障害」を治療するのに適切な薬を見つける試みに専心するので、患者の抱える問題が、人間という集団の成員として機能するのをどのように妨げているかという点に取り組むことが、ついついなおざりになってしまう。

身体はトラウマを記録する P130~131

社会交流の機能の妨害と、覚醒の調整機能の不全。精神疾患はこれら二つに突き詰められるのだろう。そしてそれらは障害とみなされ、化学薬物を使用して治療しようとされる。本当にそれが本質のものであるのか。

情動をおもに頭の中で認識しているかぎり、私たちはおおむね主導権を握り続けられるが、胸が潰れる思いや、腹に一発見舞われたような思いがするときには、耐えられない。そのような内臓感覚を、私たちはなんとしても追い払おうとする-(中略)  どれだけ多くのメンタルヘルス上の問題が、自分の情動の耐え難い身体的苦痛に対処する試みとして始まることか。

身体はトラウマを記録する。126P

『トラウマによる解離からの回復』にも同じことが記されている。

身体を傷つけ、飢えさせ、その消滅を計画し、嗜癖的行動に強迫的になるのは、身体的および感情的な痛みを軽減するためです。

トラウマによる解離からの回復 P149

情動のコントロールというのが肝だろう。トラウマがそれを滅茶苦茶にし、迷走神経系の機能不全をもたらす。そのように陥る人はたくさんいるのだろう。

それを何とかコントロールしようとすれば、正常な人に障害だと認定される。せめて「薬以外で自ら生理的作用や内的均衡を変えられる」ということが常道に乗ってほしい。

 

腹側迷走神経系を通して他の成員と同調していれば、多大な恩恵が得られる。でも、そのしシステムが機能しなければ、トラウマが起こりうる。助ける求める声に誰も反応しなければ、古い脳である大脳辺縁系が加勢する。それでも脅威を防ぎきれなければ、究極の緊急系である、背側迷走神経系が活性化される。*1

自分の通院・治療におけるトラウマは、たしかにそのような状況にあった。家族は助けてくれず、裏切りとも取れるようなケアの仕方があった。それを乗り越えるとすれば、情動を圧し殺すしかない。ありのままの内部信号を無視し、身体的・感情的苦痛を和らげること。それが無理をするということだった。

その名残はまだある。不調にまつわる情動、死の恐怖は何とか消し去りたく、まともで豊かな日々を生きていきたい。その強い情動があり、かつそれを鎮める方法を手にしていない。すると頼りになるのは身体しかない。自分の場合では、何とか身体を上向けようとしてしまう。その摂食の不自由がある。

 

死にまつわる不調コンプレックスは半分を鎮めている。でも、まだ余裕を得たくあるし、満足のいく日々を生きたい気持ちが強い。それはやはり、現実で満足を得てしまうしかない。最低限の体力はあるのだし、何とかして社会交流をするしかないだろう。

社会的支援というのは、単に他の人々といっしょにいるのとは違う。肝心なのは「相互作用」であり、身の周りの人々に、本当に聞いてもらえている、目を向けてもらえていること、誰かの頭や心の中に自分がしっかり位置を占めていると感じられることだ。生理機能が落ち着き、回復し、成長するには、私たちは体の芯で安全を感じる必要がある。

身体はトラウマを記録する P131

それくらいの関係であれば良い。かつて元気であった頃は、たしかにそのような関係性があった。この町でそのように過ごせたら良いけれど、そのような相手はいないだろう。

ただ、こういった記述もあった。

大人も子供も、あまりに臆病だったり自分自身を閉ざしていたりして人間から慰めを得られないときには、他の哺乳動物との関係が役立ちうることが、過去に二十年間に広く認められるようになった。犬や馬、さらにはイルカまでもが、人間ほど複雑ではない交わりを通して、必要とされる安心感を与えてくれる。とくに犬と馬は、一部のトラウマ患者の治療に広く用いられている。

身体はトラウマを記録する P132

ペットとの繋がりで慰めを得られたら、体調にまつわる情動は収まるだろうか。それで生理的作用を変えられたら良い。

体調が上向けば余裕を得られる。そこでフラストレーションがなくなり、自立に向けて努力できたら良い。生活の満足があれば、この町でも甘んじて生きていけるだろう。

 

また明日。

 

参考文献:

*1:身体はトラウマを記録する P137.139