欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

援助の手と勇気 自分の好きな人

今日は通院日だった。午前は晴れて暖かく、車中の温度もかなり上がった。今は曇っているものの、ぎりぎり暖房を点けなくても良い。帰宅してほとんど消耗はない。以前は歩きに出たけれど、まだそこまでは戻っていないか。それでもこう記すことはできる。

診察などでこれといった問題はなかった。道もあまり混んでおらず、余裕をもって病院に到着する。

大台に戻った体重を報告すると、好意的かつ意外そうに、「ようやく戻りましたか」といった反応をされた。先月から他に異状はなく、特に共有したいこともなかった。

体力はないものの、体調不良になることはほとんどない。変わらず図書館などには通っていないものの、「対面で会計などはいくらかしている」と伝える。緊張したりはするものの、病的に困難を抱えている訳ではない。そう話したところで診察は終わった。

生活の方針や展望を語りたいものの、ドクターからそのような質問はない。そして積極的に話すような余地もない。個人的にはもっと共有したくはある。五分診察なのだけれど、薬の処方だけで問題はない。

 

セルフフィードバックも済んでいて、後は社会交流をすれば良いだけ。もう認識は煮詰まった。近所にそのような場所がないということ。移動の不自由がネックだけれど、誰かが運転する車に乗る体力はある。

自活へは取り組みたいものの、車の免許を取るのは無理だろう。それは想定の範囲内で、後は先進的な乗り合いサービスでも生まれたら良い。それに乗る体力は確保している。その余裕もいくらか生まれた。

 

であるのなら、もう無理することもないか。不調コンプレックスはなくなっても良いはず。残るは好調・自尊心コンプレックスのみ。好調になることで自尊心を保とうとするもの。

豊かな生活をしたいということと、誰からも責められずにいたいということ。主に後者が強いはず。前者もあるものの、今の生活でも悪くないだろう。月並みに生きることは難しい。もう普通ではないことは学んでいる。一人の人生を想定しつつある。

「このような大人になった」という受け止めはある。だとすれば、残るは他責を逃れられるような生活。それは社会的な存続を保つものだ。そのためには自活するしかない。何とか自活をし、移動に耐えられる体力を維持して、甘んじて田舎町に生きる。それが方針と展望だ。もうこうやって生きるしかない。最低限の自立へ向けてだ。

『身体はトラウマを記録する』に単純で直接的な表現があった。またこれもメンタルヘルスの本質だろう。

苦悩に対する最も一般的な対応は、援助の手を差し伸べて、先へ進む勇気を与えてくれそうな、自分の好きな人を見つけ出すことだ。私たちは、自転車に乗ったり、スポーツジムへ行ったりといった体を使った活動を行って、落ち着くこともできる。私たちは、このようにして感情を調節する方法を、空腹のときに誰かが授乳してくれたり、寒いときに毛布を掛けてくれたり、傷ついたり怖かったりしたときに揺すってなだめてくれたりした最初の瞬間から学び始める。

身体はトラウマを記録する P147~148

ポリヴェーガル理論からすれば協働調整だろう。その情緒的な正しいケアがあれば、ストレスを調整する方法を得られる。問題なのは周囲がケアを誤った時。教育に誤りはないと思うけれど、心身のケアには誤りがある。

ケアする人が情緒的に健康でなかったり、欲求に逆らってしまえばトラウマになる。そうなると大人になって情動をコントロールできなくなり、身体という原資に頼らざるを得なくなる。

アーロン博士の『些細なことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』で記されていることもそうだろう。周囲のケアの良し悪しと、その名残との闘いだ。子供の調整能力を預かるのは養育者。それは一生ものであり、大人になってから矯正するのは難儀だ。教育でその子の運命を縛ることはない。縛るとすれば心身の扱い方だろう。

 

「好きな人を見つければ良い」というとても簡単な処方。でも、実行するのは簡単でないのが全てだろう。真に協働調整をもたらす関係を築けたなら、それで十分に幸せになれる。後は自活の問題くらいか。精神疾患の大方がここに詰まっているはず。

読書とインターネットをする日々。前者は習慣として務め、後者は気を抜けばそう費やしてしまう。でも、今やるべきことはそれだろう。ブログは楽しくないものの、「やる意義があるかもしれない」とは感じている。

ただ、意欲がないのをどう捉えれば良い?他に相応しいものがあるのか。そうだとすれば、今やるべきことは何?どうにも分からない。意欲の有無は別として、取り組めるものは勉強と文筆くらい。

セルフフィードバックや言語化、選書くらいか。他のことに取り組んだとしても、それらは続けたい。義務的ではあるけれどそうだ。それを仕事にしてしまえたら良い。二十四時間を仕事にするか、全く別のことに費やすか。どうすれば良いか。

 

ブログのエントリーの頻度を落としたため、その作業がない日がある。そうなると今度は暇になってしまう。インターネットサーフィンをしがちだ。何か創造的な作業なりがあれば良い。

あるいは既存の仕事をし、空いた時間で好きなことをすれば良いのか。何もすることがないとかえって辛くなる。いや、したいことはあるか。それもよく分からなくなった。

セルフフィードバックをまとめたくもなく、かすかな意義によって務めているのみ。それは簡単に出来ることではなく、ずっと費やしてしまうことでもない。

 

何が価値を生むか分からないものの、意欲やアイディア、産出が尽きるものでは意味がない。画家であるのならば、何を描くかアイディアが尽きたらお終いだ。そして描くのも好きでないといけない。

自分は文筆にその意欲がない。セルフフィードバックは尽きたし、それを活かす道筋も見えない。いや、それは用意されているのだけれど、心の準備が整わない。

あるいはまだ時機は来ていないのか。もう少しすれば恥ずかしくないスタイルになるのか?親類縁者に見られても良くなければいけない。それはもうすぐ来そうでもあるし、来なさそうでもある。嗚呼、この時期はどう過ごせば良いのか。

ある人も言っていたけれど、とにかく目の前のことに取り組むしかない。それを連続してこなしていけば、それがいつかに繋がっていく。意識できるのは今だけ。

一点一点を重ねていき、未来の問題を変えていけば良い。未来を不安に思っても仕方ない。そうやって今を放棄していれば、本当に悪い未来がやってきてしまう。存在するのはその時その時であり、その積み重ねで未来がある。

そのためにまず目の前のことだ。そうするしかない。たとえ変化が見えないとしても、少しずつは動きがあるだろう。それはやがて大きな力となり、不意に変化が訪れる。それはその時その時に集中していたから。その結果で未来に変化が起こる。

きっとそうだろう。そうやってあるべき日々へ辿ること。今の生活に原因を求めること。それを未来で回収する。過去と今は相互相補的。そして表裏一体だ。きっと何かに繋がっている。努力を怠れば不安が起こり、またその逆もある。まずは目の前のことをすれば良い。そうやって楽しめたらなお良しだ。

 

また明日。

 

参考文献: