欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

善意のケア 不健全なあやし方

今日は晴れている。これくらいが春の陽気といったところか。ここ何日か前には夏日があったりして、これからが思いやられた。午前の早い時間でも歩くときつくなった。今日の温度感が季節相応だ。辺りの緑は薄く鮮やかになった。初夏と春が入り混ざる頃。

一昨日の計測では増えていた。夕食を快調に摂れ、腹が明確に膨らんでいた。そうなったのは昼食の摂り方だろう。昼食後にすぐ間食を摂れ、そこで無理をすることがなかった。もう一口だけ食べようかと思った時、少し手が止まったのを感じられた。それが満腹の合図だったろう。その内部信号を感じられた。

昨日の計測では減少していたものの、腹は問題なく膨らんだ。やはり満腹の寸前で収めるだけでも変わる。特に昼食でのそれが大切で、昨日もそれがあった。すると夕食で腹がぐんと膨らむ。ただそれだけで良い。一食で大食することはない。

肝心なのは連続して摂ること。三食の量よりもそれだろう。そして間食を摂りたい。不定愁訴はあるものの、空腹の時間が長くある。そこでエネルギーを使わずにいたい。奮って三食に挑むのではなく、薄く引き延ばすこと。何食も摂る必要はない良いけれど、軽い摂取はしていたい。

『身体はトラウマを記録する』を読み、また思考が開けた。人間がストレスを抱え、トラウマの後遺症に悩まされるのは、かつて逃げることも戦うことも許されず、養育者が保護するどころか、無視や危害を加えたからだ。その逆の状況があれば傷は浅かった。

ケアの仕方は子供の生涯を左右する。でも、自分の親は全てが善意だったと言う。それをどう受け止めれば良い?いつかそれが自分の糧になる?

愛着関係が構築されなければ、自分をあやす方法を手に入れられない。すると迷走神経系をコントロール出来なくなり、それが機能不全に陥る。養育者が同調したりして保護できなければ、子供は不健全な方法で自分をあやすしかない。

それは一生物になるかもしれない。大人になって親密な関係を築けなかったり、内外で化学物質に頼ったりしてしまう。うつ病パニック障害双極性障害、境界性パーソナリティー障害などがそうで、それは本質的に正確な診断とは言えない。摂食障害自傷行為などもそうだろう。それはトラウマによる情動の制御不全、更に迷走神経系の機能不全によるもの。

 

親は「虐待もネグレクトもしていませんが?」 などと偉ぶってふて腐れるものの、上述の状態をもたらした。自分は逃げることも許されず、聡明な振りをした親に半強制的に入院させられた。自尊心を傷つけてくる相手に対し、親は助けてくれず、逃げることも戦うことも叶わなかった。その時のその状況で、あるいは後に似た状況を再現しそうになったとすれば、いったい何の方法で生存を保てば良かっただろう。

親はどんなケアの仕方をし、それによって自分は何を学んだ?ただその状況を受け入れるしかなかった。そして何らかの努力をするとすれば、身体を頼るしかなかった。身体という最後の原資に頼り、情動をコントロールするしかない。不調にはまって生存・自尊心が脅かされたのだから、好調を取り戻すしかない。体重が落ち込んだのだから、何とかそれを戻すしかない。そのためには無理をして食べるしかなかった。

それが摂食と不良とみなされ、摂食障害の診断が下った。それは遺恨はまだ残っている。「死なないように体重を底上げしたい」とか、「在りたい日々のために体力が必要だ」とコンプレックスが湧き起こり、気が付けば無理をしてしまう。それは今の生活でも改善の方法がないから。

 

改めてその体調コンプレックス、情動の制御不全による摂食不良を鎮めるには、社会交流による安全の確保が欠かせない。そのなかで、親との和解は既に済んでいる。

後は「好調をもたらして豊かに生きたい」というコンプレックスを鎮めれば良い。そのためには実際にその満足を得ることと、それによる迷走神経系の機能の回復が重要だ。もうここまでは来ている。

ついこの前は、計測について記すのを忘れていた。「もうその気もなくなったか」と思った。その心理はもう記した通り。トラウマについて認知を得ても、ほとんどセルフフィードバックに繋がらないか。

産出が尽きたのであれば、もうこの形の文筆は見切り時か?では、次はどうすればよいだろう。思考による言語化と、人の心を読んで支援をすること。それが学んで認識した可能性のはず。

以前は日々の鬱屈を日記帳に記していたけれど、今はそれがほぼない。人生の進展ともとれるけれど、記す源泉がなくなった。それが意欲の根源ならば、その形の文筆には限界がある。でも、他の形を試すには意欲がない。学習と思考の言語化はまだあるけれど、それが何になるのか。他に仕事はあるのか。

 

生きている世界が原始時代であれば、十分に活躍できる仕事があったろう。センシティブさを活かすも良く、頭や手先を使っても良く、子供などに接するのも良いだろう。そのような単純な世界ならば、人の代わりに出来る仕事はたくさんあったはず。

 

世の中の仕事は全て代行業か。人が面倒だと思うものや、簡単に出来ないことをしてあげる。行動代行業でもあり、それは情報なりを代わりに取得している。手に入れにくい物を届けたり。あるいは自分で作ってみる。代わりにそうしてあげることだ。一次産業の産物でも良いし、情報など無形の物でも良い。

世の中で必要とされている物を、自分が代わりに届けてあげる。人が面倒だと思うことを代わりにする。そのように出来るのが得意なこと。

世の中はそうやって分業で出来ている。そのような出来ることをするか、単純に何かを楽しむか、何かの軸を定め、無垢で健全に承認を求めれば良い。趣味か一芸だ。どちらかがないといけない。趣味を代行して娯楽を生むか、極めて初心者に与える。あるいは人が煩うものをやってあげること。それが仕事になるはず。

とにかく市場に出るしかない。でも、評価に曝されるのは怖い。それは自信があるからなのだろう。でも、その裏側には不安も同じくある。それがネックだ。

社会的存続のために作品を作ってもろくなことにならない。それでは評価が生存に関わる。創作は打算のない意欲から始まらないといけない。嗚呼。

 

また明日。

 

参考文献: