欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

慢性的な緊急反応 安心とくつろぎ

今日は曇りのち晴れか。直近では季節外れの暑さになっていない。程よく過ごしやすいところ。雨が降ったりもしていて、朝晩は冷え込んでいる。辺りの緑は少し濃くなったか。新緑の芽吹きの季節。風がねっとりとその匂いになれば初夏だ。まだ木々はさやいでいない。

一昨日の計測では上向いていた。まだまだ腰はくびれているものの、いくらかは肉がついている。太ももも少し太くなったか。

夕食では強い満腹にならなかったものの、それで十分だった。やはり腹八分を維持するだけで良い。それを改めて認識した。昼食と間食を軽く収めるのが鍵。それが出来れば夕食の結果を良く見込める。それも夕方の時点でだ。次の食事はすぐにやって来る。

 

昨日の計測ではまた増えていた。上昇の角度がた上がったか。もうすぐで大台から一キログラムの増加になる。

昼と夕の摂取を微妙に思ったものの、かなり状態は良いようだ。それら共に「もう一口は摂りたい」というところを抑えられた。昼食の後にはすぐ間食を摂れ、その後はスポーツドリンクで収めた。

そのようにして上向くのであれば、それだけで良いらしい。以前までは「精一杯の摂取をしても太らない」と嘆いていたけれど、今はその逆に近くなっている。気楽な摂取をするだけで上向くのだろう。

それは以前から捉え直していて、実際にその通りになっているところ。この摂り方が癖になってくれたら良い。腹八分ではなく、ぎりぎり満腹手前の一口を抑えること。

 

直近では少し食べすぎたりするものの、大きい影響はない。基本エクササイズもあるし、負債に負債を抱えることもない。その度に摂取の仕方を再認識している。それが上述のものに繋がっていて、在るべきところへ近付いていると信じたい。

『身体はトラウマを記録する』から得た認知をまた記そう。胃腸にまつわる認知は少ないものの、トラウマの科学や、その本質の断片はたくさんある。

無力で動けない状態だと、人は自分を守るためにストレスホルモンを利用することができない。そうなると、ホルモンは分泌され続けているものの、それが促すはずの行動は妨げられてしまう。やがて、対処を促進するはずだった活性化のパターンが、本人の体に不利に働き、今度は不適切な闘争/逃走/凍結反応を煽り続ける。適切に機能する状態に戻るためには、このいつまでも続く緊急反応を終わらせなければならない。体は標準的な状態にまで回復し、安心してくつろぐ必要がある。そうすれば、体は本当の危険に直面したときに、行動を起こして対処できるのだ。

身体はトラウマを記録する P355~

いつまでも続く緊急反応を終わらせること。助けがなかったり、無力だった頃のストレス反応が続いているのはある。闘争か逃走が出来ず、情動の制御のために身体を頼るしかなくなった。本来の対処を促進するはずだった活性化パターンが、今の身体に不利に働いている。その緊急反応を終わらせるには、安心してくつろぐしかない。

そのためにセンサリーモーター・サイコセラピーや、ソマティック・エクスペリエンスなど、身体に働きかけるセラピーが生まれたよう。これは身体感覚を用い、過去のトラウマが身体に残した痕跡の場所と形態を発見するものだそう。

自己認識の力を取り戻せないのであれば、そういったセラピーが有効なのだろう。自分は虐待ほどのトラウマはないため、内部の経験を自覚することは出来る。それは今まで理知的に行ったこと。後は社会交流さえあれば良い。

 

そのためにもう一つ引いておこう。

トラウマを負った人は、家族や親類、専門のセラピストとのつながり、アルコホーリクス・アノニマスの集まり、退役軍人の組織、宗教的なコミュニティといった、人間関係の中で回復する。

すでに見たように、脳回路の配線の多くは、他者と同調することに向けられている。トラウマから回復するには、同じ人間である他者と(再び)結び付かなければならない。

P344

トラウマケアの本質はそうであり、精神の健康というものもそうなのだろう。マズローの考察した通りで、所属と愛が病を癒す。それが社会的な哺乳類の生存を確かにするからだ。社会交流が出来ず、闘争と逃走も出来なければ、後は爬虫類のように生き延びるしかない。その機能は人間にもある。でも、それでは由々しきことが起こる。

情動のコントロールが出来なければ、精神は狂ったようになってしまう。本人もそう思ってしまったり、誤った皮相的な病態だけが切り取られ、ラベルや病名を貼られてしまう。それでは何の解決にもならないのに、その事に社会の各所は気付いていない。

昨日はブログを記さず、短文で記すこともなかった。フラストレーションがないのは良いけれど、新しい意欲が湧いてくる訳ではない。

自己認識や自活のための勉強はしたいけれど、セルフフィードバックは済んでいる。後は自活が出来れば良いだけだけれど、そのための創造的な意欲がない。 それが難点だ。

 

読書と言語化が性に合うと思うけれど、それを携えて市場に出られていない。それが問題だ。宣伝力のある人に見つけられもしないし、一般的な読者にも出会えていない。

切実なモノローグが多すぎる。世の中には自分と似たような人や、似た悩みを持つ人はいると思う。でも、そのためにありありとした部分を表すのは辛い。日記帳でしか記せないものを匿名で公開している。それが何かになるのか?

 

自分のライフスタイルをコンテンツにするのも有りか。自分らしい意見や思いを展開していく。はたまた明確な価値観や立場を固持し、それを流布、あるいは教育していく。その生活に必要なものを生み、悩める人に売る。

その産出はどんなものが良いか。そうなると文筆しかないだろう。まとまったそれを売っていく。だとすれば、ひたすら読んで書くしかない。でも、その意欲や難易度はどうなのか?嗚呼。

 

人生そのものがコンテンツになれば良い。すると後はそれを表現するのみ。そのための力をつけるだけ。そこに少しの勉強を加え、日常の問題を解決すること。するとその物事の上級者になり、それを表現すれば初心者に感謝される。その努力と手間に感謝代が払われる。何かの勉強と工夫。

好きなこと、楽しめること、興味があること、褒められたいこと。それらのうち一つでもあれば、何かの創造に繋げられる。それを極めればやがて上級者になり、後はそれを発信すれば良い。そうやってコンテンツにしてしまう。何かに取り組み、その足跡を残していく。文筆でそうしているつもりだけれど、今度は認知がない。

 

クリエイターの経済圏があるのはnoteくらい。そこにはエッセイを読む人も居る。そこで自己を展開すれば良いか。アクセスもそこから取れるし、ファンも作れる。まとまったものを商品にも出来るだろう。

人生や生活をコンテンツにするとすれば、エッセイ風味に利がある。それは問題解決の記事にないもの。Webページでのビジネスか、クリエイターとしてのそれか。

誰かの問題を解決することはあるかもしれないけれど、エッセイなどではそれが薄い。ファンからの課金が主なものになる。それが可能になるプラットフォームに赴くのが良い。そこで完結させるか、他と組み合わせて工夫するか。後者しかなさそう。

セルフフィードバックやそれにまつわるコラム・エッセイを記そうと思えば、一記事での有用性を狙うのは大変。記事そのものにアクセスしてもらうか、記した本人に対してそうしてもらうかだ。自分は後者だろう。前者は検索からの流入があり、そこで問題を解決できる。

でも、エッセイ風味の物を調べてくる人は少ない。はてな界隈に病人は居ないし、闘病記がホットエントリーになることもない。はてなブログを伸ばすためには、はてなブログ内のユーザー同士と交流し、はてなブックマークTwitterで爆発させることだろう。

その基本がまず難しい。はてなブログは一記事の完成度が肝に見える。筆者ありきの記事と分けてみれば、それぞれ半分くらいか。そういった場所でやっていっても意味があるのか。

どうにも難しい。検索からの流入はあるけれど、その人の問題の解決にはならないだろう。あるいはコンテンツに力がなかったり、そもそも綺麗にまとまっていなかったりする。

せっかくここまで積み重ねたのだから、それを活かしていきたい。でも、それが生涯の産出になっていくのか?いつかどこかで意欲や種が尽きそう。

かといって、他に性に合うことが分からない。でも、文筆に懸けるのも心もとない。その板挟みだ。いつかだれかに見初められたりするのか、まだコンテンツの磨きが足りないのか。

必要なのは続けること。いや、文筆が本当に性に合うかだ。それが問われていく。そのような人以外がふるいに落とされる。意欲と産出が尽きないのならば、市場に出るのは苦でないし、いつか磨きかかって認められるのだろう。嗚呼、そういうことなのか。

 

また明日。

 

参考文献: