欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

勉強と言語化 性に合う仕事

一昨日の計測では増加していた。夕食でそこまで腹は膨らまなかったけれど、また一キログラム増える手前だった。最近はその辺りに近付くことが多くなった。

夕食では食欲があったから良かった。昼食でも無理をしていなかったため、調子を維持することが出来た。一食の摂取量は増えていないものの、昨年の水準には近付いている。

 

夕べの計測では堅調だった。また昼食後の間食を抑えられたため、夕食では食欲があった。腹もよく膨らんでいて、肉付きは多少まともになった気がした。

もう少しで底から二キログラムプラスだ。今はその手前で安定しているはず。次の診察までに突き破れるか。いや、その意識が強くなりすぎるといけない。まだ一口をはやってしまうことはある。

何だか生活の様々な意欲がなくなってきた。これまで色々と変質していて、そのなかで強い意欲がない。セルフフィードバックも粗方を終え、フラストレーションが薄くなった。身体もかなり楽になっているのだろう。それは喉元過ぎて忘れてしまう。

以前は理想の生活を浮かべていたけれど、今はそれもない。とにかく自活のための煩悶しかない。そういった情報収集をしていて、稼げるようになるための意欲しかない。

「都会に住んで賑やかな所に行きたい」とか、「何気ない自然に触れられたら良い」とは思っている。後は親愛なる哺乳動物がいてくれたらだ。そして何かで自活をすることが出来、仕事、遊び、家庭のバランスを行ったり来たりする。それが理想か。

そういったエネルギーはあれど、暇による創造の意欲はない。それが問題だ。せっかく暇であるのにも関わらず、何も意欲が湧いてこない。あるいは文筆の積み重ねを活かせない。

得意なことや出来ることを考察しても、そもそも意欲のある物事がない。そして実践にも移せない。市場にも出られず、ただ呆けて待ちぼうするのみ。ただ長くインターネットを見てしまう。

 

以前は「自分には文章しかない」と思っていたけれど、今では記す意欲が薄い。単純に書かなくても生きていける。もうそのようになったか。それはアイデンティティーの1/3くらいだろう。書きたくもなく、見られたくもない。

産出が尽きたのであれば、単純に生涯の仕事にはならない。でも、他に何がある?在宅で仕事をするにしても、それはまともな仕事だろう。そのための技術もないし、それを背負うことも出来ない。

 

最近はブログを記さず過ごしている。それで短文で記すことも怠惰になる。読書と思考はしているけれど、記すまでではなさそうだった。フラストレーションがないのは良いけれど、文筆の根源的な欲求が失われている。それではセルフフィードバックが尽きてしまう。ブログのスタイルも変えていきたい。

もう記す意欲がほとんどない。フラストレーションによるものはそうで、思考による言語化はまだある。でも、それはまとめて記すまでもない。日記を残す意欲もないし、そもそもブログとはどんなコンテンツだろう。原動力もなくて迷走している。

 

単純な日記として記せば良いか、知識や経験などを表すコンテンツにすれば良いのか。それらは独立させれば良いのか、無欲に記すべきなのか。いや、とにもかくにも意欲が必要。細かい作業が煩わしいとしても、根底に意欲があれば乗り越えられる。自分にはそれがない。

音声のコンテンツを作り続けるのならば、喋りたいことが尽きたら話にならない。それは単純な話だろう。では、文章はどうなのか。それは多分、思考を整理することだと思う。知的な刺激や経験を元に思考し、思い付いた塊を記す。原始の始まりでもそうだと思うし、現代人の脳でもそうだと思う。

 

ブログはWebページの一つで、個人で簡単に作成できるそれがブログサービスだろう。その元々の形態は何だったのだろう。テキストで意見などを記していたのか?テキストメディアであるのは確かで、やはり思考のまとめや言語化が主だったろう。そこにソーシャルの機能が加わり、それが書籍になったり、色々な影響をもたらす資産になった。

ブログはストックのメディアであるし、精巧な物を留めておくのが良い。それをフローで更新しても仕方ないか。それはこちらでする。だから頻度よりも質を重視すべき。それはある程度まとまったのだから、別の形でまとめたいところ。

手持ちのお金の残量が気になってきた。もうためらいなくは使えない。かといって、何かに投資しなければ増えることもない。書籍に使うのは賢明だと思うけれど、それが実をもたらしてはいない。どんどん消費しても良いのだろうか。

何かの仕事をしたい。性に合う何かの仕事をしたい。ただそれだけだ。言語から思考し、感情を読んで表す。相手の心理を読み、思考して表現する。勉強と言語化か、対人的な支援か。あるいは物を売るか、コンテンツを売るか。それは既製品か、それとも技能か。

 

意欲がなくて創造も出来ないならば、娯楽にたくさん費やすというのはどうか。金を払ってひたすら消費する。そのような満足を得るためにひたすら働く。それに長けている人もいるはず。その人たちから集めた税金を政府が預かり、それをまた配分する。

一部の人がアイディアを出してビジネス、あるいは創造をして社会を豊かにする。その恩恵を消費者が受け、時間と貨幣を費やす。それによって得られた貨幣は、また政府が配分する。

娯楽を消費するというのも社会活動ではあるはず。ただ、その原資がどういったものかだ。今は政府から配られることはない。だからそれを自力で獲得したい。そうすれば恥ずかしくないし、自由を得られる。

でも、何で人の役に立つか分からない。好きなことか、意欲のあることか。はたまた興味のあることか、簡単に出来ることか。あるいは詳しいこと?

 

大昔なら何者も使い物で、何らかの仕事はあったはず。でも、今は文明が高度になり、豊かな生活をするとなれば、貨幣を獲得しなければならない。その貨幣の獲得も、社会生活の高度化で難しくなっている。簡単な仕事は残っていない。あるいは以前は物を大量に売れば良かったものの、今はそういかない。

何が人の役に立つかはっきりしなくなっている。前時代の誰にでもあったニーズなど、それに伴う価値は消滅しつつある。それを打ち破るアイディアを見つければ、多くの貨幣を得られる。ただ、何が人の役に立つか分からない。

 

それぞれの人には性質があり、何か性に合うものは必ずあるはず。そのどれかは時代によって素質になる。そしてそれは、周囲から才能として捉えられる。でも、いま才能があると見なされることも、時代が違えば使い物にならなかった可能性がある。

ある程度は性質に合う仕事を選んだ方が良い。でも、自分の何が素質になるのか?それを見定めたいけれど、全く見つからない。やはり既存の仕事から選ぶべきか?それとも性に合うこと優先?創造的な意欲を優先する?

 

とにかく行動すべきだ。単純に評価を求めれば良い。それなのにも関わらず、何も選択することが出来ない。文筆にも蹴りをつけられない。

出来ることと言えば、やはりトラウマに関する勉強や、それにまつわる言語化だろう。でも、それが簡単でなく、意欲もないのがネックだ。ただ、自分にはそれしかない。自分を勉強するのが仕事になれば良い。それは常にしていること。

 

また明日。