欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

個々の性質の核 意欲と満足

今日は暑くなっている。ここ最近は晴れが続いているか。遠くの山並みは緑が濃くなっていて、初夏の色合いがした。午前の早い時間に歩いたけれど、かなり身体が熱くなった。もう来週は六月だ。一年を折り返すのも間もなく。

一昨日の計測ではまた堅調だった。昼食で満腹になってしまったものの、夕食はそれなりに摂れた。ここに食欲があればもっと増えていたか。

朝食を意識的に抑えたため、昼食ではかなり食欲があった。でも、それでよく食べられて満腹になってしまう。この辺りの塩梅が難しい。摂取量を維持するのは大変だ。

 

夕べの計測では少し減少があった。夕食はよく摂れていたものの、腹があまり膨らまなかった。少し食欲は薄かったと思う。そんな時もあるか。

食欲さえ安定してくれたら良い。過度な食べすぎは減っているものの、些細なそれは頻発している。食べられる量を見極めたり、それを意識し続けるのは面倒だ。

もっと腹が空いてほしいけれど、食べすぎはあるだろう。それは好調コンプレックスの仕業で、それを抑えるには満足を得るしかない。でも、自分は一般的な日常を送れない。食事も遊びも何もかも、同年代とは違っている。生活で交わるものがない。

 

やはり頼りは消化酵素くらいだ。ここ直近では快い満腹が減っている気がする。次の診察までにどうなるだろう。大台から一キログラムの増はなさそうか。それでも大台は十分に維持している。

言語屋として勉強・表現をし、家事、用事、家庭の時間を回せば暇などなくなる。一人で暇は潰せるし、友達は要らない。必要なのは最低限の体力。それは一人でも得られるのか、ペットなどが必要か?

とりあえず自分をウェブ上に存在させる。そうしないと始まらない。自分の意見や価値観など、アイデンティティーを発現させておく。それを乗り越えられたなら、後はスコアが伸びるものを選べば良い。ネット上に何かを発信し、誰かに評価してもらう。やることはそれだけだ。健全にスコアを稼げば良い。

 

好きなことよりも、簡単に出来て喜ばれることをすれば良い。そのためにはアウトプットするしかない。かつてのその経験があれば良いし、それは表出したから分かったもの。新たに見つけるならば、同じように誰かに見てもらうしかない。何か出来ることをする。それで喜ばれることを役目にする。

言語に触れ、言語を操る。それが文筆の肝か。とにかく言語を吸収し、それに経験や思考を加え、独自の意味合いにする。そうやって学んで何かを生み、信頼を貯めて売る。誰かの活字やトークを元に、自分も自分なりに記し、話す。言語好きでないと始まらない。

 

「お金がもらえなくてもすること」は元来のモチベーションによるものか。それに費やしていれば、何かに熟達していくはず。それを表現するなりすれば良い。何十年も生きていれば、何かには詳しくなるはず。

人には必ず何かの性質があり、その核にあるのは意欲だと思う。その意欲の赴くままにしていれば、何かを極められる。それが文化と合わされば、誰かの役に立つかもしれない。周りが幸運に思えば、それは才能と呼ばれる。

モチベーションは人生で一番大事かもしれない。それに費やせば満足を得られるし、誰かの役に立つかもしれない。つまり仕事になり得る。一石二鳥だ。

コンテンツを作るにはモチベーションが必須。そしてそれを伸ばすため、スコアを弾いていく。クリエーションのモチベーションがあれば良いけれど、それがないなら外発的な課題を与えられた方が良いか。既存の問題を解決するため、スコアを弾いていく。それがそれなりに性に合えば良い。

岡田  それに、労働の結果がお金としての報酬だけっていうのも変ですよね。労働に対しては「成果」が与えられるってことを知ってもいいですよね。労働をやった結果こんな成長がありました、こんな成果が得られましたっていうのも立派なものだと思うんですよ。

(中略)

岡田  働くのがイヤだ、ずっと遊んでいたいっていう人って、実は「働き者」なんですよね。つまり遊ぶことで得られる楽しさとか満足感とかも一種の成果なんですよ。仕事が嫌だと言いつつ遊んでばかりの人は、楽しさという成果を追い求めることに努力を惜しまない人。はたから見たらものすごく働いてるんですよ。

岡田  ニートの人が「いや、オレもう働くのが嫌なんです、なにひとつしたくないんです、毎日マンガ読んでニコ生とか見て、好きなだけツイッターとかやっていたいんです」とか言うんですけど、「おまえものすごく働いてるやん!」と突っ込みたくなります。

評価と贈与の経済学 60P

働くことの本質は、満足感を高めることか?そのような前提にしてみよう。欲求を満たすことや、個人的な満足、成果を得ようとすること。欲求の水準が低ければ食うためで、高ければ自己実現のためになる。個人的なものだと遊びで、食うために稼ぐのももちろん働くこと。

太古では身体の恒常性を保つため、原始的な意味で食うために働かざるを得なかったはず。それは生理的な欲求を満たすためのもの。そういった意味で捉えれば、働くのは「必要なものを得る動き」でもある。

原始時代は生きる欲求を満たすため、そのような労働が求められた。それは個人単位でのもの。そこから集団生活をすることにより、社会が生まれて分業の仕組みが生まれた。すると仕事が生まれる。そして人の役に立つということも発生する。その喜びを味わえた個体は、社会生活における働き者になった。

原始生活とその遺伝から考えれば、この世には遊びたがりな働き者と、役に立ちたがりな働き者がいるのではないか。ただ、現代では労働が生活上の仕方ないもの、きつい義務になってしまっている。

 

遊びの意欲が強くあるのなら、それは満足を得るのにせっせと働いているのでもある。問題なのは、それが誰の役にも立たない場合だ。

それが何とかならないものか。主婦だって家の仕事をしている訳だし、それに対価があっても良い。引きこもっていたとしても、誰かとチャットするのに忙しいのなら、満足を得るのに働いている。

でも、人の役には立っていないということで対価を得られない。それは何とかならないものか。そのためにどうすれば良いかを考えている。色々な知見を得ているものの、具体的な案は見いだせない。

嗚呼、とにかく何でも良いから稼ぎたい。必要な物が買えないし、自尊心も保てない。

 

また明日。

 

参考文献: