欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

既存の医療モデル 生き直しと勉強

最近は過ごしやすい日和が続いている。雨が何日か続いたときは巣籠もりをしていた。ここ何日かは晴れているけれど、暑さできつくなる程ではない。このくらいの温度が通年で続けば良い。体力は落ちていないものの、歩く距離はまだまだ伸びない。

一昨日の計測では減少していた。夕食はそれなりに食べられたものの、どうにも食欲が薄かったか。やはり朝食は抑えて摂れるものの、昼食で満腹になってしまう。それで間食も摂れないし、夕食までに腹が空かない。

間食と満腹後の収まりが鍵で、胃に強度がないと肥えていかない。こればかりは運の要素が大きいか。数字が上向く時は、いつも不意に訪れる。意識すれば摂取が変わるものでもないし、時の運に流されている内が良いか。

 

昨日の計測は微増だった。昼食ではふと一口を抑えられ、夕食ではそれなりに食欲があった。それで夕食はよく摂れたものの、そこまで数字は良くなかった。それでいて更に食後感が悪め。そして今朝は快調でない。

まあ、そんな時もあるか。まだまだ腰回りに肉が足りない。食欲と食後の収まりは制御できず、消化酵素の助力も薄い。極端に食べられない訳ではないけれど、一膳を食べて余裕があることは少ない。そのくらいの強度で食後感もまちまち。どうにも難しい。

新しく買った『腸と脳 体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するか』が届く。帯には様々な疾患と腸内環境との関係について触れられている。慢性疼痛、過敏性腸症候群うつ病、不安障害、自閉スペクトラム症パーキンソン病などがあり、それは腸内微生物との関係が示唆されている。

あるブログを読んで認知したこの書籍。またそのブログを読んで情報を取得したい。セルフフィードバックの種は尽きなさそう。認知や学びは無限にあるか。ただ、勉強は好きなのだけれど、気付きをまとめるのは得意でない。

 

感想を本文から引用しつつまとめてみよう。

私が大学の医学部に入ったのは一九七〇年だが、そのころの医師たちは人体を、限られた数の部品からなる複雑な機械としてとらえていた。(中略)

しかしここ四、五〇年のあいだに、私たちの健康に関する何かが根本的に狂いはじめ、古い医療モデルでは対処はおろか、理由の説明さえも不可能なことが明らかになってきた。一つの器官や遺伝子の異常という要因によって現在起こっている問題を説明することは、もはや妥当とはみなされなくなった。

腸と脳 P10より

古い医療モデルと器官や遺伝子の異常という定説。自分もそれをほぼ信用していないし、第一それに救われなどしなかった。そしてトラウマ科学や多重迷走神経理論を学び、上記の考えに近い意見を持った。

『身体はトラウマを記録する』は著者の自伝的内容とそれに付随するトラウマの科学が回顧されていた。この書籍も同じようなもので、まだ医学の常道の外にある科学がまとめられているのだろう。

原因不明だからといって諦めているよりは良い。メンタルヘルスは人生規模の問題であり、生き直しが必要。そのために現在の医療科学を頼っても効果はなかった。

(中略)ところが総合的な評価では、アメリカは最低のランクに位置づけられている。このデータは、アメリカでは健康問題に対処するのに莫大な資源が費やされるようになったにもかかわらず、慢性疼痛、過敏性腸症候群などの脳腸障害、うつ病、不安障害、神経変性疾患などの心の病の治療に関しては、ほとんど進歩がないという厳しい現実を反映する。この結果は、人体を理解するモデルが時代遅れになったことを意味するのか?この問いに「イエス」と答える統合医療の専門家、機能性医療の実践者の数は次第に増えつつある。それどころか、主流の科学者にも、そのように考える人が現われはじめている。変化は差し迫っているのだ。

腸と脳 P15より

だんだんとパラダイムシフトが起こっているという。それは安心できるかもしれないけれど、そのような認識でいる医療者を見たことがない。一部にはいるだろうけれど、マスメディアに出る人はいないし、近くの医療者がそのようである可能性は少ない。

医療者は既存のモデル従うしかないのか、このパラダイムやフロンティアが誤りなのか。いや、とにかく学ばなければ始まらない。自分はそう思っているのだし、そうすれば良いだろう。対決したい訳ではないけれど、いつどう変わってくれるのだろうか。

心から「誰かに見てほしい」と思っていないと、発信するのに枷が生まれるはず。それをためらう人というのは、そもそもアクセスを望んでいない。でも、その向こうにある成果を望んでいる。

そういう場合はどうすれば良いのか。見てもらいたくはあっても、自信がなかったりする。だから腰が軽い人の意欲を上回らない。人に感謝されたくはあっても、大勢に見てもらいたい訳ではない。全体に認知されることはないだろうけれど、その不安がよぎるとためらってしまう。

 

コンテンツをウェブ上に発現させ、そこへのアクセスを工夫して伸ばす。それだけで何とかなりそう。ただ、有益なコンテンツを生むのが難しい。行動や情報で役立たせるのか、娯楽を生んでいくのか。

アクセスをソーシャルで集めたとしても、それだけでは限界がありそう。とにかくどんな人助けをするかだ。そのためにどんな技能を身に付けられるか。自分の価値を高めるため、お金や時間を投資していく。ただ、最終的に発信は欠かせないだろう。それがまたネックだ。

 

勉強するのが苦でないものを考える。あるいはすでにそうしていることを見つける。日頃から何の情報を収集しているか。それを用いて人助けをする。何が蓄積していて、どんな表現・発信が可能になるか。

自分のどんな能力を伸ばしたいか、あるいはどんな能力を身に付けたいかだ。お金や時間を使ってどんなことを学びたいか。それが本当に好きなことのはず。それで人の役に立てば、満足と対価の二つを同時に得られる。

 

思考力だけで何とかならないものか。それによって誰かが耳を傾けてくれ、信頼が生まれたら良い。更に思考力があれば、今ある問題を解決できる。それは誰かの問題をも解決するかもしれない。それをコンテンツにして売る。それか気楽な語りでも聴いてくれるかもしれない。そこまで価値がつけば凄いこと。

思考力を売るということ。いま抱えている問題を解決し、似た誰かの悩みも解決する。何かの情報や意見をまとめ、それをフックにする。思考のお裾分けに価値がつくか。弁舌などに変容させれば、日常の思考をも売れるかもしれない。ある音声の配信を聴いて考えた。

 

言語を通して思考し、今ある問題を解決する。そしてそれを分かりやすく表現し、誰かに認知してもらう。そこで誰かの役に立った時、それが仕事になるはず。

発信による出来ることの発見。何が人の役に立つか分からないのだから、表せるものを表せば良い。持ち得るものを発信する。それが出来ることに繋がり、そしてそれを発見できる。

 

お金を稼ぐというよりも、手持ちの物・ものを回すという感覚が良いか。経済は物々交換が始まりだろうし、何か持ち得るものを提供すれば良い。

実際の物でも良いし、技能や手間でも良い。お互いが物を持っていないなら、貨幣を介して対価を交換する。とにかく人助けをすること。それだと苦ではなさそう。

「自分が持っているものを与えた」ということの証明になるのが貨幣か。零からお金を生み出そうとするより、何か有形無形の手持ちを提供すれば良い。持ち得るもので人助けをする。何が助けになるのか分からないなら、何か表現できるものを存在・発信すれば良い。

 

思考と言語か、内省と言語か、あるいは感情と直観か。言語知能、内省知能、対人的知能は関わってくるはず。でも、そのどれがマッチし、表現に繋がるか分からない。

言語にまつわる思考・内省か、対人的な直観による支援か。発信と反りが合うものはない。人に伝えたいものはなく、恥ずかしくなる。

 

自分がされて嬉しいことをする。これも大きいことか。文筆ならば、読みたい文章を自分で書く。自分を救う文章を自分で書く。それが似た悩み・魂を持つ人に伝われば、有り難がられるかもしれない。

問題を解決するための思考、認知・認識の提供。大幅な手間の代行になれば良い。好きなことを通した人助け。勉強と思考のショートカット。それを代行する。

 

既に世の中にある難しい仕事をこなし、初めからそれに向けて技能を見に付ける。あるいは好きなことや充足感を表現し、それが結果的に人助けに繋っていく。それとも何かのコンテンツを作り、精練させながらスコアを弾いていく。

書くということでも、色々な種類の作業がある。恐らく向いているのは、フラストレーションを言語化すること、それと思考をまとめることだ。調べてまとめるなど、実用的なものは簡単に出来ない。そうなると作家的な脳に近いのか?この辺りを分析していきたい。

 

また明日。

 

参考文献