欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

自然の美と息遣い 戸外の大気と幸福度

最近の計測では落ちたり増えたりしている。よく多くは食べられないものの、駄目駄目でもない。腹回りはまだすかすかだけれど、衰弱しておらず、体重も大台を維持している。

ただ、依然として食間の空腹は何とも出来ない。無理はほとんどなく、そうなれば消化はスムーズに終わる。でも、そこで腹が空かない。空腹なのにだ。嗚呼。

 

昨日は昼の間食を摂れなかった。昼食で無理をしたつもりはないけれど、食欲が薄かった。それで満腹になってしまったのだろう。

食欲の確認はおろそかになるけれど、規定の摂取量は頭にこびりついている。それが本当に厄介。今朝は体力があった方だから、歩きに出ても良かったか。なかなか判断が難しい

ただ、過度な無理はなかり減っている。でも、それによる食欲の安定はない。意識的に抑え続けると胃が強くならず、よく摂ろうとすると食欲に抗ってしまう。体重が急減したりはしないものの、快く腹が膨らむのはまちまち。

やはり今の生活習慣だと仕方ないか。表面的な工夫に意味はなく、抜本的な対処をするしかない。生活習慣と食習慣を変え、社会交流と自然との触れ合いを増やす。健康のためにはそれらと遊びの時間が欠かせない。

 

戻り梅雨のこの頃。今夏の旧成人式は開催されるのか?一ヶ月を切ってもまだ知らせが来ない。疫禍は収束したと思ったら再燃してしまった。

BMIが低いのも基礎疾患ではあるだろう。インフルエンザより毒性が強いのなら、それは十分な脅威になってしまう。世の中の雰囲気は軽視に傾いているから怖い。高校卒業の年にそれが始まったから、最も影響を受けた世代になるのではないか。

『NATURE FIX』のプロローグ、副題には「戸外の大気は人を元気にする強壮剤」とある。その一節目のタイトルは「どこにいるかが幸福度を左右する」。「誰と一緒にいるか」「何をしているか」の他にも、「どこにいるか」ということも幸福度を大きく左右するそう*1

都会にいる時と豊かな自然がある環境(特に海岸沿い)にいるときの幸福度の差は、一人でいる時と友人と一緒にいる時の差よりはるかに大きく、何もしていない時と歌やスポーツなど好きなことをしている時との差と同程度だった。

NATURE FIX P13

人間の神経系は、自然界に由来する様々な心地よさに共鳴するよう出来ているそう*2。日々の不満が多いのは、精神的な回復力が弱っているため。その一方で、苛々が収まったり、普段より思いやりが持てたり、集中できたり、どんと構えられる時もある。そうした状態になるには、自然の力を利用できるとのこと*3

 

とはいえ、生き延びるには危険を避けるだけでは足りない。質のいい食料、安全なねぐら、さまざまな資源を見つけることもまた肝心だ。そう考えれば、脳が蛇や蜘蛛をおそれることを学んできたように、ある種の居住空間が「幸せホルモン」の分泌をうながすこともよくわかる。 (中略) バイオフィリア仮説では、自然のなかにある穏やかで生命を育む要素により、人間が心の平静、明晰な認知機能、共感、希望といったものを取り戻す力を得ると仮定している。たとえ愛情、笑い、音楽といったものが周囲になくても、美しい夕焼けならだれもが日々の暮らしで目にすることができる。自然が発信する穏やかな美や息づかいをもっとも敏感に察知できる者は生き延び、次の世代にその能力を受け渡す。

NATURE FIX P37~

今の生活は、まさに愛情や笑いが遠い。それでも、美しい自然の美や息遣いは、誰でも感じ取ることが出来る。それが心の平静などを取り戻してくれるのなら、その事実は希望だ。周囲の環境さえ整えば、心身の不調は和らぐということ。

自然を敏感に感じ取れるのは、この生まれ持った性質の一つにあるだろう。センシティブパーソンの割合が三割ほどというのは、少ないのか多いのか。センシティブさが裏目に出たために、生存数が限られた気もする。

鈍感な人間が生きやすかったのか否か。人間との関係でストレスを感じやすいのだろうけれど、そのぶん環境から得られるものも多くなる。三割も生き残ったと捉えれば、それは自然の恩恵を受けたからなのか?

また思考のメモを記しておく。何のために発信するのか。それをまた考えた方が良いと思った。何かを伝えたいのか、何か解決したい問題があるのか。とにかくそのような意欲がないと始まらない。いや、そう言うとそもそも向いていないのではないか?努めて励むようなものには限度がある。

コンテンツクリエイトのモチベーションは、いわるゆメモ程度のものか。あるいは「伝えたい」という意欲が柱になる。その意欲が強い人はそもそも向いている。

凡人がメモをしたくなるには、何かを意欲的に学ばないといけないか。あるいは創作を楽しめたら良い?そういうタイプなら特に強い。何でも良いから表現が楽しくなれば良い。

 

SNSにはみな何を求めている?コメント?知的刺激?救い?趣味?繋がり?そのどれにも意欲が湧かない。いや、まず「自分が何を求めているか」だ。それと同じことを自分が体現すれば良い。自分は誰に何を与えられるか。あるいは何を与えてほしいのか。

コンテンツビジネスとは、アクセスを集めて広告を貼る、誰かの悩みを解決する商品を売る、誰かが知りたいことを商品にする、この三つか。ただ、それらが解っても肝心のコンテンツ製作意欲がない。

 

常に追われるようにインプットをしてきたけれど、ふと意味がないように感じられた。サブスクでマネタイズしている訳ではなく、毎日の更新を課されてはいない。価値のあるアウトプットに繋がってもいないし、何の意味もない。

フローを更新するのに比重を置くべきか。学び、気付き、思考、これらをまず分かりやすくまとめる。その中の反響があったものをブログに記す。ストックメディアにフローでコンテンツを残さなくても良い。自分のどんな部分に価値があるかをSNSで確かめ、それに応じて成果を工夫する。そこからか。

 

何かを簡単に続けられ、かつそのことを誰かに伝えたくある場合、既に優位にあるのかもしれない。その意欲があるのが最良。好きなことでコンテンツを作るには、それが必要になってくる。後は表現を継続し、練度を高めれば良い。

その意欲がない場合、努力でそこに追い付けるのか?あるいは方向転換して別の何かを見つけるべきか。真に意欲的に学べるのなら、それが得意となって誰かに伝えたくもなるはず。それはメモ程度だったとしても強い。とにかく何かのコンテンツを楽しんで作れたら良い。それが見つかったら良い。

 

この人の話を聴きたい!と思ってもらわないといけないか。そのためには知識や面白さが必要。面白さが難しいとすれば、説得力のある知識や意見を身に付ける。それは努力で補えそう。学びや感じたこと、それらのメモを記していく。そこから意見に昇華できたらより良い。

ビジネス目的の発信なら、割り切ってビジネス(人助け)のための技能を身に付ければ良い。そこに振り切れないのなら、何のために発信したいのか考えるべきか。アクセスを集める娯楽か、アクセスを集めてサービスや物を売るか、それとも自分でコンテンツを作るのか。どれに適うのか考えないといけない。

好きなこと・遊ぶことを通してお金を稼ぐにしても、それを人助けのために工夫しないといけない。それには作業が求められるから、それすら好き・遊び感覚で取り組める人が強い。意欲のあることに継続して費やしつつ、それを誰かに分かりやすく伝える意欲もある。それがコンテンツを作るのには必要。

 

また明日。

 

参考文献

*1:NATURE FIX P11

*2:NATURE FIX P15

*3:NATURE FIXP16