欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

9月17~18日 意識の使い方 理性と行動

9月17日(土)

今日も歯ぎしりの違和感はなかった。やはり新しいストレッチは効果があるかもしれない。これでもう磨耗してくれなければ良い。歯ぎしりは歯科で治るものでもないし、筋肉のストレッチしかない。

 

今朝の胃はそこまで不快でなかったものの、朝食はパン一本で収める。もう少し食べたくあったものの、気持ち悪いような満腹感もあった。パン一本でそうなるのはきつすぎる。それで消耗はしないものの、少しでも歩いたりすると応える。

昼も負債はなく、食欲も悪くなかった一方、わずかに早期膨満があったか。というより、やはり胃が動かなくなるような満腹感がある。昨日と同じで満腹が早い。

それでいてやはり規定量を意識してしまう。それはもう病気として置いおこう。客観的な摂取量を認識したことにより、それを楽観・許容することが出来なかった。二口は食べすぎてしまったと思う。それが仇となり、食後から嫌な満腹感がある。

 

他に飲み物を摂らず、スポドリで収めた結果、夕方には空腹になる。それで夕食もそれなりの食欲があったものの、用意した量の半分を超えた辺りから雲行きが怪しくなる。

早期膨満とは少し違う感じで、胃の弱さと言うのか、病的なきつさを感じる。それで多くは摂らずに済んだものの、計測で増えるには至らない。

それも当たり前で、並みの量も到底摂れず、間食も摂れていないし、壊滅の寸前だ。体力の瀬戸際にいる。もう何ともならないのか。せっかく連続して散歩に出ているのに、全く効果がない。もうどうしたら良いのか。

 

胃が明らかに弱すぎる。それで多少の満腹でも負荷になってしまう。前回の診察後は快さがあったのに、それが全くなくなってしまう。もう何があったか思い出せない。

ドクターとの診察が浮かべてしまう頃。良い体調を報告したいけれど、そうならないものは仕方ない。こちらから申告しない限り、何かを変えられることはない。だから何も気遣わなくて良いけれど、どうしても取り繕いたくある。

まず診察の朝の調子による。それで快く収められなかった場合、体力的にきつくなる。そうなると診察室に着くのがやっとで、弱気なことを言ってしまうはず。だからまず当日の朝は快く収めたい。それさえ上手くいけば来月へ繋げられる。

9月18日(日)

今朝は早く目覚め、胃に負債はほぼなかった。でも、何故か食前の漢方を飲むと気分が悪くなる。それは漢方の味ではなく、水道水の臭いだったか。

それで胃が爽快でなくなり、いつも通りの朝食を摂れない。いつもでも少ないというのに、もう滅茶苦茶だ。アイスで収めようかと思ったものの、今度は親の視線を気にしてしまう。そしてそれを許容できない自分もいる。

 

ここまで不運なことがあるのか。なぜ胃が弱くなっているのか分からないし、運動をしても良くならない。そしてこの調子では歩きに出られない。もう何なんだ。

「意識が介入できやしない」と諦念も浮かんだけれど、意識がひたすら抗うからこうなるのか。分かっているけれど放っておけない。それを抑えるのはどうしても不可能。

 

身体の余裕は身体にないといけない。死にたくないし、体調を下手にケアされたくない。そして豊かに生きてフラストレーションを晴らしたい。ストレスを減らすにはそうするしかないと学んだ。「衰弱して死ぬのはまだ先だ」と捉え直したものの、それだけでは何とも収まらない。この生活は受容できない。

でも、それは受容なんかしなくて良いはず。ストレスがなくなればストレス反応もなくなる。それをするしかないだけ。すると食欲も出るし、不定愁訴はなくなる。屋外で過ごし、所属と愛があって、没頭できる何かで自己実現する。それでストレスはなくなるのだから、もうコンプレックスが働かなくても済む。

でも、それが叶わない内はどうすれば良いのか。それが分からないところ。ストレスや人生の限度は理解しているけれど、それでコンプレックスが鎮まることはない。何とか生存を確かにしようと働いてしまう。

 

それは生きるのにストイックということか?ある早世したミュージシャンのやつれ顔を思い出す。その人が出演したミュージックビデオでは、「このやつれた顔を見れば、いかに生きることにストイックだったか分かる」とコメントがあった。

生きる力が薄ければ生きやすい。生きる力が強いと暴力的になる。自分にもそうで、他人にも、社会にもそうなる。それはストイックな自尊心が故のこと。無情な世の中だ。この世は地獄なのか。

 

どうすれば良いか分からないのなら、心の声に耳を傾ければ良い。それが出来ないなら仕方ないけれど、「何故それが出来ないのか」は考えた方が良い。奥底の声は意識へサインを出していて、それは思考や生活の変化を求めている。ストレス反応を無視しないとこが第一で、ストレスから抜け出すのが第二。

意識の使い方を誤らないこと。それは奥底の声を感じ、それに忠実な行動を起こしていくもの。理性が奥底の声を遮ってはいけなく、その声をどう行動に移すかを考えないといけない。理性は命令に忠実な司令塔であるべき。

 

その後の昼では少し楽になり、買い物へも行けた。昼もあまり腹が空かなかったものの、最低限度までは収められる。そこからぎりぎりまで収めてしまったものの、その後はきつくならなかった。たまたまの幸運だろう。

午前はそこまできつくはなかった。体力は落ちず、すぐに消化された結果、その後はスポドリで収めていた。そして昼食後のヤクルトで落ち着いてくる。

不定愁訴はすぐ楽になるものか。劇的に落ち込むと恥ずかしくなる。それも経験しているのだけれど、どうにも意識が乗っ取られる。ストイックに取り組まないことだ。

 

夕食ではそれなりに食欲があり、かつ早期膨満もなかった。昨日の不意の満腹もない。体重は増えなかったものの、昨日より痩せずに済んだ。この調子で三食摂れたらどうなったのか。

 

やはり無理が全ての根源なのか。ふと思ったのは、「食欲不振や悪心は全てが不定愁訴によるのか?」ということ。そもそも身体の調子として、それらには波があって当然。それは普通の人でもそうだろう。

それなのにそれを気にしすぎ、根を詰めて真に受けてしまう。調子が悪くなって無理をし、良くなっても無理をしてしまう。その狭間に苦しみと現況がある。

まだこれは解明できるものか。内的家族療法のパーツ理論が関わりそう。神経伝達物質の作用機序と、コンプレックスに乗っ取られる原理。その解明が最後の捉え直しになるはず。

 

参考文献